3つ前の記事でギリシャ王室のフィリッポス王子の婚約について紹介しました。
ギリシャ王室 フィリッポス王子婚約を発表


ギリシャ王室は1974年まで存在していたギリシャ王国の統治者であった国王コンスタンティノス2世とその家族を指します。


●コンスタンティノス2世
最後の国王コンスタンティノス2世とアンナ=マリア王妃(2012年10月20日 ルクセンブルク公国ギヨーム公世子とステファニー妃の結婚式)


1940年6月2日、ギリシャ国王パウロス1世と旧ハノーファー王家出身のフリデリキ王妃の第2子として生まれました。姉はスペイン国王フアン・カルロス1世の妻ソフィア王妃。
ハノーファー王家の子孫でハノーファー家家長のエルンスト・アウグスト5世(モナコのカロリーヌ公女の3番目の夫)は母方の従弟にあたります。
イギリス王室のチャールズ皇太子とは男系の又従兄弟の関係で、ウィリアム王子のゴットファーザーでもあります。


曾祖父のゲオルギオス1世(在位:1863年 - 1913年)はデンマーク国王クリスチャン9世の次男かつデンマーク国王フレゼリク8世の弟であり、デンマーク王家の分枝であることから、ギリシャ王室の成員のほとんどが「ギリシャおよびデンマークのプリンス・プリンセス」の称号を持っています。


1941年4月、0歳10ヶ月の時にギリシャ王家は第二次世界大戦の戦禍を逃れてクレタ島へ避難。亡命中の国王ゲオルギオス2世(コンスタンティノス2世の伯父)は、王家を南アフリカ共和国へさらに避難させました。1942年、ケープタウンで妹のイレーネ王女生が誕生しました。その後、1944年に王家はエジプトへ移りました。
1946年に王政復古がかない家族と一緒にギリシャに戻ると、1947年に国王ゲオルギオス2世が心臓発作で亡くなりました。ゲオルギオス2世には子供がいなかった為、王弟のパウロス1世が国王に即位し、コンスタンティノス王子はを王太子となりました。 

1950年に撮影されたギリシャ国王一家
左から妹イリニ王女、パウロス1世、コンスタンティノス王子、姉ソフィア王女(後のスペイン王妃)、フレデリキ王妃。


1961年イギリス王室のケント公爵エドワード王子とキャサリン妃の結婚式に参列したコンスタンティノス王子と姉のソフィア王女(後のスペイン王妃)




1964年、父パウロス1世の死去により国王に即位しました。同年、デンマーク王室出身のアンナ=マリア王女と結婚しました。



1967年4月21日、軍事クーデターが起こり、同年12月にコンスタンティノス2世はは家族を連れてローマに亡命しました。
1967年12月14日、イタリア ローマに到着したコンスタンティノス2世とアンナ=マリア王妃


その後も国王不在のまま、形だけの君主制が続いていましたが、1973年に軍事政権は君主制を廃止し、共和制への移行を宣言、1974年には2度目の国民投票が行われ、大差をつけて正式に君主制の廃止が決定しました。



※元国王の名字問題
1994年までギリシャが発行したコンスタンティノス2世のパスポートには「Constantine, former King of the Hellenes(コンスタンティノス、ヘレネスの元国王)」と記載されていました。Hellenesとは古代ギリシャ人の自称です。
 1994年に成立した法律により、ギリシャの市民権、パスポート、および財産等の所有権は剥奪されました。 法律はコンスタンティノス2世が姓を採用しない限り、ギリシャのパスポートを付与することはできないとしています。
King Constantine」というタイトルを使い続けていますが、「Constantine, King of the Hellenes」はもう使用していません。 


王室財産問題でギリシャ政府を欧州人権裁判所に提訴するために、名字を名乗る必要に迫られた際、コンスタンティノス2世はギリシャ語で「ギリシャの」を意味するτης Ελλάδας(ティス・エラザス)に決めました。これはスペイン語ではde Grecia(デ・グレシア)となり、アテネ オリンピックで一時帰国した際には、スペイン語名Constantino de Grecia(コンスタンティノ・デ・グレシア)で、ギリシャ王室とつながりの深いデンマークの外交パスポートを持って入国しました。


2016年9月19日にアテネのザッピオンホールで開催されたリオ2016オリンピックへのギリシャ代表団の93人の選手を称えるイベントに出席

晩年は家族とロンドンで暮らしましたが、2013年以降はアテネに戻りました。2023年1月10日、アテネで82歳で崩御されました。




●アンナ=マリア王妃
デンマーク国王フレゼリク9世とイングリッド王妃の三女、デンマークの王女として1946年8月30日に生まれました。デンマーク語名はアンネ=マリー(Anne-Marie Dagmar Ingrid)。現デンマーク女王マルグレーテ2世は姉です。


左からマルグレーテ女王、ベネディクテ王女、イングリッド王妃、アンナ=マリア王妃



コンスタンティノス2世とアンナ=マリア王妃は共にデンマーク国王クリスチャン9世の玄孫に当たります。
1964年9月18日に結婚式を挙げ、1965年7月10日に長女アレクシア王女が生まれました。



1967年5月20日長男パウロス王太子が生まれましたが、4月21日の軍事クーデターにより、12月14日にギリシャ北東部カヴァラから一家4人で軍用機に乗り、イタリアへ亡命しました。
左からフリデリキ王妃、ソフィア王女(スペイン王妃)、パウロス皇太子を抱くアンナ=マリア王妃とアレクシア王女、コンスタンティノス2世。右奥は国王の妹イリニ王女です。洗礼式でしょうか、おめでたい行事のはずですが、表情が暗いのは既にクーデターが起きているからかもしれません。






1969年に亡命先のイタリアで次男のニコラオス王子が誕生しました。



1974年に一家でイギリスへ転居してから1983年にセオドラ王女、1986年にフィリッポス王子を出産しました。5人の子供をもうけた国王夫妻ですが、第一子アレクシア王女と第五子フィリッポス王子の年齢差は21歳差!アンナ=マリー王妃の年齢は第一子出産が19歳、第五子出産が40歳の時でした。


●アレクシア王女
1965年7月10日、ケルキラ島にあるモンレポス城でギリシャ国王夫妻の第一子として生まれました。
1967年に弟パウロス王子が生まれるまではギリシャ王位の推定相続人の地位(王太子)にありました。

ギリシャのタトイ城で撮影された写真です。アレクシア王女はロイヤルキッズの定番、スモッキングワンピース。






1983年9月21日に撮影されたアレクシア王女と両親の写真

他の兄弟と同様にロンドンのギリシャ人学校で教育を受けた後、1985年にサリー大学の一部門であるローハンプトンインスティチュートのフレーベルカレッジに通い、1988年に歴史と教育の学士号を取得しました。1989年から1992年にかけて、ロンドンのサザーク中心部にある大学院に通い、卒業後は小学校の教師になりました。その後、バルセロナに移り、発達障害の子供たちの教師になりました。


1999年7月9日に、スペイン人の建築家でヨットレース選手のカルロス・モラーレス・クインタラと、ロンドンの聖ソフィア大聖堂で結婚式を挙げました。結婚に際してカトリックに改宗したため、旧ギリシャ王位およびイギリス王位継承権を喪失しています。


アレクシア王女の結婚式にはエリザベス女王も出席されました。エリザベス女王の奥はコンスタンティノス2世です。




2010年に撮影されたアレクシア王女一家


夫との間に4人の子供をもうけ、夫の故郷であるカナリア諸島のランサローテ島のプエルト・カレロ・マリーナで夫が設計した家に住んでいます。


長くなりましたので次回の記事に続きます。



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以上です。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

 


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