大阪に行って、騙されて、それでも前に進んだ話。
シリーズ「私が僕になるまで」第6回
実業団を、半年でやめた。
長く続けてきたソフトボールを手放すことが、どういうことか——正直、やめてみるまでよく分からなかった。
グローブを置いた日は、思ったより静かだった。大きな決断のはずなのに、拍子抜けするほど普通の一日だった。
体のことを進めるために、動き出す必要があった。それだけだった。
行き先は、大阪だった。親戚が仕事を紹介してくれるという話があって、住む場所も用意してくれるということだった。
わに革の財布やカバンを作る仕事らしかった。よく分からなかったけれど、とりあえず行くことにした。
これが、のちに「完全に騙された」と笑えるようになる話の始まりである。
週6・8時間・月4万円
大阪に着いて、親戚の家に住み始めた。
仕事はわに革の財布やカバンを作る工房だった。手仕事で、覚えることも多かった。
週6日、毎日8時間みっちり働いた。
最初の給料日、金額を聞いて一瞬止まった。
4万円だった。
週6で8時間。計算が合わない。いや、どう計算しても合わない。
でもそのとき私はまだ「こういうもんなのかな」と思っていた。世間知らずにもほどがある。
さらに聞かされたのが、家賃5万円という話だった。
給料4万円で、家賃5万円。
……赤字だ。
当然のように夜もバイトを始めた。昼は工房で革を縫って、夜はバイトで働く。
寝る時間を削りながら、なんとか生活していた。
今思えばおかしいと即気づくべき状況なのだが、そのときの私は「大阪で頑張っている」くらいの気持ちでいた。
若さとは恐ろしい。
IHと25万円のローン
転機は、IHだった。
台所にあったIHが、壊れた。私が使っていたのは事実だ。でも、もともと古かったし、普通に使っていただけだった。
「弁償しろ」と言われた。
金額は、25万円だった。
IHが25万円。新品でもそんなにしない。でも当時の私には交渉する知識も、断る勢いもなかった。
気づいたらローンを組まされていた。25万円のローンを。IHのために。
後から調べたら、そのIHは型落ちの中古品だった。
完全に騙された。
これを今笑って書けるのは、あのとき電話できる人がいたからだと思っている。
よく、電話していた
親戚の家では、色々と制約があった。大切な人と会うにも制限があって、日々のストレスは積み重なっていた。
そういうとき、よく電話していたのが継母だった。
血はつながっていないけれど、私にとってちゃんと家族だった。実の親だと思っている。
愚痴を聞いてくれて、「それはおかしい」とちゃんと言ってくれる人だった。IHの話も、バイトの話も、全部聞いてもらった。
「それ、完全に騙されてるよ」
そう言ってくれたのも、継母だった。ようやく現実が見えてきた気がした。
電話口での告白
体に関する治療を始めたかった。
始めると、声が変わる。低くなる。それは避けられない変化だった。
電話で継母と話しているうちに、声が変わったことに気づかれる日が来る。それなら、先に話しておきたかった。
ある夜の電話で、話すことにした。
前置きをどうしようか考えていたけれど、結局あまり前置きはしなかった。
「話したいことがある」と言って、自分のこと、これから体が変わっていくかもしれないこと——順番に話した。
電話口は、少しの間静かになった。
「ちょっとよく分からないから、調べてみる!」
それが最初の言葉だった。
思わず笑ってしまった。否定でも、混乱でもなく、調べてみる。その返し方が、継母らしかった。
「はるな愛さんの逆バージョンだよ」と説明した。女性として生まれたけど、男性として生きていきたい、という意味で。
「あ、なるほど!」
電話口の声が、少し明るくなった気がした。
父には、継母から伝えてもらった。驚いた様子だったらしい。
でも、その後ふたりで色々と調べてくれたと、後から聞いた。否定するためじゃなく、理解するために、ふたりで調べてくれた。
その話を聞いたとき、少しだけ泣きそうになった。でも泣かなかった。ただ、よかった、と思った。
声が変わる前に、話せてよかった
電話を切って、しばらくそのまま座っていた。
怖かったのかもしれない。でも終わってみると、思ったよりずっと静かな夜だった。否定されなかった。変な空気にもならなかった。ただ、「そうなんだね」と受け取ってもらえた。
声が変わる前に、話せてよかった、と思った。
変わっていく自分を、変わる前から知っていてもらえる。それがどういうことか、そのときはまだよく分からなかった。でも、話してよかったということだけは、はっきり分かった。
大阪に来て、騙されて、バイトをかけ持ちして、25万円のローンを組まされた。それでも、この時期に継母に話せたことは、あとから振り返ると大きな一歩だったと思っている。
場所も、お金も、うまくいっていなかった。でも、ひとつだけ、前に進んでいた。
次回「私が僕になるまで」第7回は、体の変化に向き合い始めた日のことを書きます。
【書き手より】騙された話は今では笑えます。あのIHのローン、本当に意味がわからなかった(笑)。でもあの時期に継母に話せたことは、笑えない大事なことでした。血がつながっていなくても、「そうなんだね」と言ってくれる人がそばにいることの大きさを、あの夜の電話で知りました。
シリーズ「私が僕になるまで」 第1回:みんなと笑っていた。でも私だけ、少し遠くにいた。 第2回:その言葉に出会った夜のこと。 第3回:彼女ができた。でも、誰にも言えなかった。 第4回:国体の夏と、初めて「仲間」に出会った場所。 第5回:体を、自分のものにしていく話。 第6回:大阪に行って、騙されて、それでも前に進んだ話。(本記事) 第7回:体の変化に向き合い始めた日のこと。(近日公開)