シリーズ「私が僕になるまで」第3回
彼女ができた。でも、誰にも言えなかった。
高校に入って、世界が少し変わった。
特待生として入学した強豪校だった。自宅から片道二時間半かけて通った。
朝4時に家を出て、練習して、授業を受けて、また練習して、帰宅するころには深夜だった。
毎日それを繰り返した。しんどかった。でも、不思議とそれでよかった。
ボールを追いかけている間は、余計なことを考えなくてよかった。
ひとつ、嬉しいことがあった。強豪校だったから、髪を短くしていても誰も何も言わなかった。
むしろ当たり前だった。短く切った髪で練習に出る。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
ただ、制服のスカートだけは、どうしようもなかった。
毎朝、着替えるたびに、少しだけ気持ちが沈んだ。髪を切る自由はあるのに、ここだけはどうにもならない。
そのアンバランスさが、妙に体に残った。
体のことも、ずっと気になっていた。
嫌だと思えば思うほど、胸は大きくなっていった。自分の意志とは関係なく、体だけが変わっていく。ど
うにかしたくても、何もできない。嫌だという気持ちと、どうにもならないという感覚が、毎日少しずつ積み重なっていった。
着替えのとき、なるべく見ないようにしていた。
チームメイトとは、グラウンドにいるあいだは話が弾んだ。ソ
フトボールという共通の言語があるから、それだけでつながれた。でも、その輪の中に、ひとつ怖いものがあった。
ある日、何気ない会話の中で、ひとりがこう言った。
「女の子好きとかやめてよ。そうなったら友達でいられなくなる」
笑いながら言っていた。悪意があったかどうかは、分からない。でも、その言葉は、静かに、深いところに刺さった。
言えない理由が、またひとつ増えた気がした。
それでも、帰り道の二時間半はひとりだった。
電車の窓の外を見ながら、いつも少しだけ静かになった。中学のころと同じだ、と思った。
場所が変わっても、この感覚だけは変わらなかった。
高校一年の終わり頃、彼女ができた。
他校の子だった。試合で何度か顔を合わせるうちに、向こうから気持ちを伝えてくれた。
私が女の子を好きだということを、その子は知っていたのかもしれない。真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた。
素直に、嬉しかった。ずっと誰にも言えなかった「女の子が好き」という気持ちを、初めてちゃんと受け取ってもらえた気がした。だから、付き合うことにした。
初めて、全部話せた
付き合い始めて少し経ったころ、自分のことを話した。
FTMということ。女性として生まれたけれど、そうじゃない気がずっとしていること。中学のころから抱えてきたこと。
うまく言葉にできるか不安だったけれど、話し始めたら止まらなかった。
彼女は、静かに聞いてくれた。
否定されなかった。変な顔もされなかった。「そうなんだね」と言って、それで終わりだった。
それだけだったのに、何かが、ほどけた。
それまで、自分のことを全部話したことがなかった。
誰かに話すということが、どういうことか、あの日初めて分かった気がした。
チームには、言えなかった
でも、学校では誰にも言えなかった。
毎日一緒に練習して、笑って、汗を流して、試合に出る。そういう仲間たちだった。信頼していた。好きだった。
それでも、言えなかった。
恋愛の話が出ると、また一瞬止まった。
「最近どう?気になる人いないの?」
いる、と思う。でも言えない。中学のころと同じだ。
ただ、中学のころと少し違うのは、「いる」ということがはっきり分かっていた、ということだ。言えない理由も、分かっていた。
そんなころ、妙なうわさが立った。
「野球部の子と付き合ってるらしい」
誰が言い出したのか、分からない。事実ではなかった。でも、なぜか否定しきれない自分がいた。
「違う」と言えば済む話なのに、その一言が出てこなかった。
本当のことを言う勇気もなかったし、嘘をつき通す気にもなれなかった。曖昧に笑ってやり過ごした。
うわさはいつの間にか消えた。でも、あのとき何も言えなかった自分のことは、しばらく残った。
言葉を持ちながら、黙っていた。それが、中学のころより少しだけ重かった。
ふたつの世界を生きていた
彼女といるときの私と、チームにいるときの私は、少しだけ違った。
彼女といるときは、全部を知ってもらっている。自分のことを、そのまま見てもらっている。
その感覚が、当たり前になっていった。
チームにいるときは、全部は出せない。笑って、話して、一緒に練習する。それは本当のことだし、その時間も好きだった。
ただ、どこかに「見せていない部分」があった。
ふたつの世界を行き来しながら、どちらも本物だと思っていた。
でも、帰り道にひとりになると、また静かになった。全部を出せている場所と、出せていない場所。
その差が、少しずつ大きくなっていく気がしていた。
「きっくん」を知らない人たちの中で
高校のチームメイトは、私のことを本名で呼んだ。
「きっくん」と呼んでくれる人は、ここにはいない。当たり前のことだった。
でも、ふとした瞬間にそのことを思い出すと、小学生のころのあの感覚が遠くなっていく気がした。
グラウンドでグローブをはめると、あの頃と同じ感触がある。でも、呼ばれる名前が違う。
同じ場所にいるのに、少しだけ遠い。
チームメイトのことは、好きだった。それは本当のことだ。ただ、彼女の前でだけ近くなれた笑い声が、チームの輪の中ではまだ、少しだけ遠くから聞こえていた。
秘密は、重くなる
誰かに全部を知ってもらう、ということを覚えてしまうと、知ってもらえていない場所の重さに気づくようになった。
言えない、ということの意味が変わった。
中学のころは、言葉を持っていなかった。だから言えなかった。
でも今は、言葉を持っている。自分が何者かも、分かってきた。それでも言えない——
その「言えない」は、以前よりずっと重かった。
彼女と電話を切るたびに、少しだけ思った。
この話を、いつかチームにもできる日が来るだろうか。
答えは出なかった。ただ、そう思っていた、ということだけは、今も覚えている。
次回「私が僕になるまで」第4回は、国体選手として高校最後の夏を戦ったこと、そして実業団へ進んで初めて「同じ景色を持つ仲間」に出会った頃のことを書きます。
【書き手より】 誰かに全部を話せた、という経験が、その後の自分を少しずつ変えてくれたと思っています。彼女がいてくれたから、言葉にする練習ができた。そのことを、今でも感謝しています。