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歩いても歩いても
2007・114分・シネカノン

dir. 是枝裕和
cast 阿部寛、夏川結衣、樹木希林、原田芳雄、YOU

15年前に死んだ兄の命日に実家に帰る弟を中心に描かれた家族の話。

邦画の空気感とかテンポが恋しくなったときに見て、すこんと落ちる映画。
是枝監督の作品はなんだかそういう空気がある。

はじまりの料理を作るところをひたすら丁寧映るシーンが印象的で、無条件にしあわせな気持ちになる。ほっとして、穏やかな気持ちになる。意図的に、こういう空気感をもった小説や映画、絵や音楽とか(なんでもいいのだけれど)享受することはなんだか大切だとおもう。
人が元来もっている、暴力的でネガティブな、他人を危険にさらす気分は、きっとこういうものに触れることでバランスをとっている気がする。


阿部寛の演じる不器用な男役はいつも感心しちゃって、愛おしい気持ちになる。
家族の歯がゆい関係をも愛おしくなる。近いからこそ、露骨に見えてくる残酷さとか横柄さとか。
逆もしかり。どちらも粗くて扱いにくい。

「誰も知らない」のときもそうだったけれど、家族の何気ない会話を焦点をしぼらないであちこちで自分勝手に声を発している感じがいい。家族の会話は、自分のなかで、一方通行で、他人とやっているような次元での理解はすごく乏しい印象があるから、この表現にいたく共感してしまうのだろう。
それは、一見かなしいことのようでしあわせな空気を作ったりもしている。ちゃんと話を聞いてくれる人がいたり、その人の話も聞きたいと思える人がいるのは素晴らしいことで、それはよく感じることなのだけれど、きっと家族の会話はそれとは違う次元にある。



表現することについて悩んでいても、結局なんかしら誰かしらの表現によって救われている。
夜中にゆったりとした邦画を見てる時間って本当にすき。

フローズンリバー


height="422" alt="映画『フローズン・リバー』" border="0" />


「FROZEN RIVER」
アメリカ/2010(日本)/97分/アステア(日本)

dir. コートニー・ハント
cast メリッサ・レオ


カナダの国境近く、モホーク族の保留地を抱えるニューヨーク北部が舞台。
夫に新居購入費をもって逃げられ、二人の息子とともになけなしのバイト代で生活しながら新居を取り戻すことを考える白人女性レオとモホーク族で自分の子供を離婚した夫の母親にとられて、その子を取り戻そうとしているライラという女性。
そのふたりが偶然に出会い、アジアの不法移民を一人1200ドルで密入国させるという犯罪に手を染める。はじめはお互いの利益のためであったが、母という共通点により次第にふたりの関係も変化していく。しかし、そう簡単にはお互いの希望が叶うはずもなくふたりはある決断を迫られる。


“社会問題”という言葉に触れると、いつも“いいこと”と“わるいこと”について考えます。


あるコミュニティーで、他人と生活していくことを円滑にするためにルールというものが設けられて、それがきっとこの善し悪しの二分法を手助けしてきたのだとおもう。それは、ちっちゃなコミュニティーからはじまって、地域に浸透して、国で採用され、いまでは世界を捉えて、個人汚染にまで発展している!ってすごく偉そうだけどごめんなさい


あたりまえに人はひとりじゃ生きていけないので、他者と共存するうえでルールは大切だし、コミュニケーションを簡単でわかりやすく、しやすく、することは必要なこととおもう。でも、ツールだったはずのルールや善悪の概念が生活に浸透しすぎて自分が遊ばれているような気がします。
善悪の概念やルールだけじゃなくて、手で持っていたものに持たれているような逆転現象がいまたくさん起こってる気がする。思っているより人間は空洞というか、白いというか、いい意味でそれは柔軟性につながるけれど、反対にすぐに自分なんていうものはもっていかれてしまう。自分だと思っていたものは。


この映画を見ると、密入国っていう社会でいうところの悪いことがふたりの女性のあいだでは自分の希望を叶えるぎりぎりの手段であって、直接的にはいいことにつながらないかもしれないけど、希望を叶えるもの→いいもの という構図もとれる。だから、なにが“いいこと”でなにが“わるいこと”なのかどんどんわからなくなる。
というか、その二分割がもともと実態のないものであって今となってはその妄執に苛まれているだけで、本当はわからないことしかないんじゃないのかなあ
全部わかるはずないものなんだけど、人間が勝手に名前をつけてカテゴライズして、わかったつもりで満足してる。


わかったつもりになるのは、その先に進むのに大切なことともおもう。(数学の公式の意味がわからなくても、それをそういうものとして使うように)
でも、満足してるっていうのが大変問題です。そしたら、そこで終わり。進むためのはずの理解が道を閉ざしちゃう。


いいこととわるいこと を判断するとき、社会のルールやだれかの言うことが基本になっていいのは自分の大切なものがか関わっていないときと思う。
なんて経験が浅いから言えるのかもしれないけれど。

このふたりの場合は、子供という大切なものがあったからこそ自分のものさしで判断をくだした。それって荒波に身を投じるとうなことだけど、人が守らなきゃいけない思い切りだとおもう。決まった流れに身をまかせたり、人のいうことにうんうんしてるだけなら、簡単なことだけど、大切なことをそんなに楽に何かに委ねるのは不自然だから。
大切なことについては外じゃなくて、内に耳を傾けること。流れに逆らうのは痛いし、ケガも免れないんだけど、いやいや無傷で自分、あるいは自分と思ってるものを投げ捨てるよりは痛くない。自分の深いところに入れていいのは本当に陶酔したものだけ。その他のあふれるものはすべて参考程度であるべきなんだ。

ふたりの姿がそんな考えに少しだけ勇気をくれます。お母さんってつよい!










ウィリアム・ケントリッジ展



ながらくさぼっていました。
書きたいこといっぱいあるので、1番記憶に新しいこと、

東京国立近代美術館に行きました。

ウィリアム・ケントリッジ
歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた・・・

ケントリッジは南アフリカで生まれた人。
80年代の末から木炭とパステルのドローイングで作られた「動くドローイング」とも呼ばれる作品を作っている。消して書く、消して書く、でコマが進んでいくので消した跡がいい具合で残っていてあたたかみがある。でも、テーマは故郷に根差したアパルトヘイトなどの社会問題。と、重く暗いもの。
基本はモノクロだが、そこに鮮やかな青や赤が差してくる時がありとてもきれい。青のものとして、作品のなかに水がよくでてくる。


はじめて見て衝撃だった作品
MINE(1991)



これをおっきなスクリーンで見れてうれしかった…!
流れるように自然に、でも不可解につづく夢のような画面から目が離せなくなります。
そのどれもが示唆的で、魅力的。本人曰く、いつもコメディを作っているつもりだけど他人にはちがうでしょ!といわれるのでコメディを待っているんだって。
たしかに、顕著に社会問題に対する意識が表れているから単なるコメディには見えない。
タイトルの 炭鉱・私のもの とダブルミーニングからは、作品にでてくる暗くおぼろげな表情をともす多くの炭鉱労働者たちとスーツを着てそれを指示する男の二つの表情がうかんでくる。
でも、最後のサイとかは、何かの暗喩なのかなーと思わせつつも急にでてくるし、かわいいのでおもしろいな と思ってしまう。彼がコメディと主張するのもなんとなくわかる気がする。

どの作品にも、わりとそういった要素があるので、ついつい重いテーマを扱っていると身構えて厳しい顔で見てしまうけれど、ちょっと見方をずらすだけでふふ、となるとこはたくさん。
本人は、どういう顔で見てほしいとかあるのかなあと思ってしまった。

映像作品はきっと全部ちゃんと見たら3時間くらいあるほどのボリュームだったので、網羅できなかったけれどとても満足でした。
いくつか部屋があり、イヤホンで数枚のスクリーンをみるところもあれば、部屋中に音楽が響いているところもありで、結構大きな音で流れていたので、楽しそうな音楽のするほうへ引き寄せられるように進んでいってみました。

音楽がすきだなーと思ったのは

Ubu Tells the Truth (1997)



映像は実写とドローイング両方で、いままで抱いていたドローイングのイメージとはちがうかんじだったけれど、1番新しい作品もこれにちかい黒塊、といったかんじ。

がこれ。

I am not me, the horse is not mine (2008)



ほんとはどちらももっと長くておもしろかったです。
ただもうこの作品なんて1部屋で8スクリーンにリンクした映像とこの音楽が流れてて楽しかった!
「tide table」もよかったなー

近美では14日まで。次は広島。
これを紹介してくれたのも、すごく素敵な広島美術館の館長さんだったからきっとそこなんだろうな。
ケントリッジ本人も来日してワークショップを行うとのこと。おもしろそう!





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