ソーシャルなる管理社会の恐怖について、語ってみたー
- Togetter
それはある夜のこと(昨夜とも言います)。
私はいつものようにツイッターで、ぶつぶつさえずっていたのでした。
「ソーシャルのばかー。あんなものは世界を救わないー」とかなんとか。
そこに通りがかった親切なお方が、「そもそも社会なる概念はね」から始まり、
「ソーシャルメディアの排他性、非民主性」について、実に分かりやすく語ってくださったのでした。
その一連の流れをまとめたものが、上記です。
軽く読めるので、とりあえず読んで下さると嬉しいです。
いかに普段、俺様が、適当な口調で語っているかも見られるのである。えっへん。←こんな感じ。
それでそれは押さえるとして、じゃあ
「ソーシャルメディアがそもそも管理者や運営者による、非民主的な管理空間だとしたら」
我々は、このネットという社会をどう生きるべきか?について、私なりにもうちょっと語ってみようかと思いました。
ちなみにソーシャルメディアというのは、SNSやtwitter、blogその他です。
そのどれにもサービス提供者=運営者がいて、彼らに一参加者は直接タッチ出来ないので、いつでも簡単に独裁できる空間なんだよね、という話でした。
親切なお方のまとめは、上のリンク先で読んでいただくとして。
私は文化的反抗の可能性について、語ってみたいと思います。
レジスタンスって、燃えるよね♪
まず、絶対に押さえるべき事は管理者の存在でしょう。
すでに「ゲーミフィケーション逝ってよし話
」で指摘したように、管理者の存在は巧妙に隠されています。
我々は所詮、管理者の掌の上で遊ばされている存在であることは、決して忘れてはいけません。
それを前提にして、じゃあどうやって反抗するのかというと。
「つまらなかったら、余所に行く」これも一つの方法です。しっかり確保すべき退路です。
その一方で「面白い場所にしてやる」という、ヒネた対処方法もあるのではないかと思うのです。
管理者にも意図しなかった方向で、その「場」が使われるなどということは、ネット・リアルを問わずよくあることです。
携帯電話も、当初はビジネスユースを考えて作られたものが、最初に飛びついたのは若者層でした。
そして携帯の歴史を見ても分かるように、管理者もやがて、その若者文化に引きずられて動きました。
このように、管理者に決して油断させず、引きずり回す方向で常に文化を生成し続ける。
すると管理者は「管理」に精一杯になって、「独裁」をする暇がなくなる。
簡単に言うと、そんなカラクリです。
そんなに上手くいくのか?
確かに限度はあります。ある日突然「ぷちっ」と潰される可能性は考えておかなければいけません。
しかし「楽しさ」というのは実に恐るべきもので、潰された先から、再生していくのです。
それこそいざとなれば、余所のソーシャルに移って、続ければよろしい。
ずばり「楽しいは正義」説。
ただし、その楽しさを生み出すのは、あくまで自分たちでなければなりません。
楽しさの主導権すら、管理者に渡してしまったら、そこには反抗も何もないのです。
ソーシャルゲームや、ゲーミフィケーションがダメなのはそこだ!←まだ言っている。
楽しさまで、管理者から与えられてどうする!
反抗的楽しさの生成は、非常にクリエイティブな行為です。
クリエイティブであるからこそ、誰にも押さえられない。
それこそ、反社会的であったり、ネガティブな方向に行く可能性も十分にあります。
それもまた、決して忘れてはいけない可能性なのですが……。
しかし私は、「与えられる」のではなく、「生み出す」文化の可能性に賭けます。
何故なら、その方が自然だからです。
逆に何も生み出さない人間の営みなんて考えられず、その芽をあらかじめ摘み取るシステムは無理があります。
あらかじめ摘み取るよりは、適宜適宜摘み取るほうが、文化という樹を大きく育てるコツなのです。
つまり、あまりにネガティブに行ったら、それこそ「管理」してもらえばいいし。超適当です。
いや本当に管理せざるを得なくなるでしょうし。
その程度の距離感で生きていきたいものです。
おんぶにだっことか、絶対に要らない。
未来は不確定だからこそ、楽しいんだー!
ちなみに、そんな楽しいツイッターはこちら 。
