(再掲・私の先祖、その1)
若い時には実感がなかったが、歳をとってきて一番哀しいのは、父母・祖父母をはじめ家族・親族であった人たちが皆鬼籍に入り、もう二度と会えなくなったことである。そして、彼らを知っている自分が死んだら、この人たちの愛情も、支えてくれた人間関係も、そして究極には存在した事実そのものも全てが消え去っていく。歳をとると、こういう空虚感にしばしば襲われる。
人はその思いから、愛情を受けた人からの手紙や写真・贈り物など大事な品を保存したり、思い出話などを伝えたりする。このようなブログを書くのもそれである。
(父と実家の水木浜海水浴場で、小学校3年、1963年)
この行為は、それ以前の先祖や「家」、地域を対象にしても行われる。古文書など家に関わる史・資料を保存したり、系図・家譜を作成したり、地域の歴史を調べまとめたりする。これは歴史学でいう資料保存と歴史叙述である。人間が「歴史」を必要とするのは、このような「愛惜」の情が根底にあるからだろうと思う。
自分の先祖は何をしていたのだろうか。詳しいことは何も分からない。実家は茨城県北部の太平洋岸の日立市というところにある。系図や文書も残されていないので、いわゆる「名家」などではない。ただ実家も母方のそれも海の傍にあり、祖父は漁師をしていたので、祖先が海と深い関係にあったことは間違いない。
(日立灯台から実家の水木浜の方を望む)
(現在の水木浜、背後の住宅地に実家がある。ネット写真)
(水木浜海水浴場、ネット写真)
父が市役所勤めをするまでは、私の実家は半農半漁で生計を立てていた。祖父が生きていた60年以上も前の私の子供時代には、一家総出で祖父の船で採った「カジメ」という海藻を浜辺に干し、それを家の畑に肥料として鋤き込んでいた。祖父は近くの港に動力船も持っていたが、「一丁漕ぎ」という艪漕ぎの小船もあり、近海で魚を取り、生活の糧にしていた。
(祖父内山福太郎・祖母トメ。昭和40年ごろ)
(艪で漕ぐ一丁漕ぎ船、ネット写真)
(水木浜のカジメ干し。右に一丁漕ぎの船がある。昭和31年頃)
実家のある町は、江戸時代には水木村という水戸藩領の一漁村であった(地図1)。地元には古い史料は残っていないが、戦国期佐竹氏家臣の文書を後にまとめた『秋田藩家蔵文書』に、戦国時代の初め頃の「佐竹の乱」の時、その違乱地の一つに「みつき」と見え(『茨城県史料』中世Ⅳ)、戦国大名佐竹氏の側近(近習)に与えられた地の一つで、「船方」なるものが知行していた。江戸時代に入ると、『寛永文書』や『与聞小識草稿』に収められた水戸藩郡奉行所の行政文書や水戸藩の編年史『水戸紀年』にいくつか史料が出て来る。
『寛永文書』は、歴史館勤務の時代に私が翻刻して『歴史館史料叢書』の一冊として刊行した。そのため史料の背景もおおよそ把握できている。
水木村の名は、寛永20年(1643)、家康の子で初代水戸藩主徳川頼房が養母の一周忌で鎌倉に赴いた際、徴発した水主(かこ)の中にその名が見える(『水戸紀年』)。水主とは水夫のことである。この時は水戸藩の沿岸の港・漁村の15か所から徴発されており、水木村が水夫も出せる沿岸漁村の一つとして存在していたことが分かる。
『寛永文書』の中には、寛永3(1626)・4年ごろ水戸藩が太平洋岸の海上で漁師が自分の魚を売買することを禁止したり、寛永18年(1641)に北部の磯原(茨城県北茨城市、地図1)の船が下総の銚子方面で破損した話が見えている。漁師たちが漁業のみでなく、領内沿岸での交易や藩領域を越えての活発な活動を行っていたことが窺える。また寛永3年と思われる、鰹漁の船320艘に税をかける覚書もあり、鰹漁、さらに鰯漁など近海漁業が盛んであった。水木村も同様であったろう。
(地図1。水木、那珂湊、磯原などの位置)
(水木浜から船藩所が置かれた田楽鼻を望む)
(水木村の船番所があった辺りから海を望む)
水木村には、那珂湊(茨城県那珂湊市)や磯原(同北茨城市)とともに、水戸藩によって正保2年(1645)、鎖国政策・キリシタン対策の一環として異国船を見張る船番所が置かれた(『与聞小識』、地図1)。それの3年前の寛永20年には前身の「御番所」が作られ、水戸藩の侍・足軽が常駐していた(『寛永文書』)。異国船の見張りだけでなく、仙台藩など東北諸藩の廻船の監視の役割もあったという(渡辺英夫『東廻り海運史の研究』山川出版社)。
私が『寛永文書』を翻刻していて面白いと思ったのは、どうも船番所などを置いて積極的に藩が関係する前までは、伊豆からやってきた「海賊」の末裔が水戸藩領の海岸を取り仕切っていたらしいということである。
(地図2、西伊豆、松崎町の位置)
〈史料〉
渡邊織部猶、父ヲ織部孝ト云、神君ニ奉仕テ船奉行トナリ、後、駿州腰屋ヨリ豆 州宮内ニ至リ居ル、天正十二年甲申、農州小牧山ノ戦ニ軍用ヲ命セラレ、勢州久
須奈ニ至テ勤労アリ、(中略)文録中朝鮮征伐ノ時モ亦軍船ノ用事ヲ承ル、
猶ハ孝カ次男ナリ、神君ニ奉仕シテ駿州ノ船奉行トナリ、元和元年乙卯、威公ニ
奉仕シテ二百石ヲ賜テ船手頭トナル、(中略)寛永八年辛未正月晦日死ス、
(『水府系纂』渡邊織部猶の項)
水戸藩の家臣の系図・家譜をまとめた上の『水府系纂』によれば、「海賊」の末裔は渡辺氏といい、もともと祖の「孝」(たかし)は駿河腰屋(静岡県腰屋)の出身であるという。水軍の頭として徳川家康の「船奉行」を勤め、のち伊豆の宮内(静岡県賀茂郡松崎町、地図2)に移り住み、戦国時代末期の小牧山の戦いで、家康の命で伊勢の久須奈まで「軍用」(物資輸送ヵ)を務め、秀吉の朝鮮出兵の文録の役でも家康から「軍船の用事」(水軍の指揮ヵ)を任されたという。子の「猶」(なお)も駿河で家康の船奉行を勤め、家康の子の頼房が慶長14年(1609)に水戸藩の初代藩主になる時にその家臣に付けられ、伊豆から水戸に移って「船手頭」(船舶行政の長)になったという伝承を持っている(以上は上の『水府系纂』の要約)。
(海賊・村上水軍の上乗り権を示す過書船旗、瀬戸内能島村上家のもの、天正9年(1581)、山口県文書館蔵)
ここでいう「海賊」とは「カリブの海賊」のような掠奪者とは少し違う。元来「海をナワバリとして生きる人たち」(海の民)のことである。交通や漁業の権利を持ち、そこを通る船から通行税を取ったり、他のナワバリの海賊ともネットワークを持って、「上乗り」と言って商船に乗船して航行の安全を保障するような存在である。当然武力も持ち、ナワバリを侵すものとは戦い、戦国大名などには「水軍」として仕えた。瀬戸内の村上水軍や熊野灘の熊野水軍などがその代表である。太古よりの存在で、「海に生きる人々」「海の民」の独自の社会集団だったのである。この海賊は秀吉の「海賊停止令」(天正16年・1588)で禁止され次第に姿を消していく。海賊は武士と漁民に分離され、江戸時代には士農工商の身分制の下、「海の民」の独自の性格は否定されて行った。
渡辺氏が海賊の末裔であることは、戦国時代の家康の水軍であったと伝えられることや、また三河以来の譜代家臣ではなく、駿河や、西伊豆の海岸である松崎町に本拠があったことなどから想像できるが、何よりも渡辺姓の下に「孝」「猶」という一字名が付く家であることがそれを示している。
(鬼の腕を切り落とした渡辺綱(御伽草子))
(地図3、渡辺津の位置)
渡辺姓に一字名が付く者には、有名な「渡辺綱」の例が知られる。渡辺綱は、平安時代後期に大江山の鬼退治伝説で有名な源頼光の四天王の一人として知られている(『御伽草子』など)。子孫は摂津淀川河口(大阪府住之江)の渡辺津(地図3)を本拠にして渡辺党と呼ばれ、瀬戸内海の水運に関わって海賊の棟梁的存在となった。海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したとされる。肥前の松浦党の始祖渡辺久や毛利氏重臣の渡辺勝、豊臣氏家臣の渡辺糺らはその子孫と称している。水戸藩の渡辺氏も同様の存在である。このような一字名の渡辺氏は、実際の系譜関係は別としても、海上交通に結びついた「海の民」の職能を持ち、摂津渡辺党を先祖に持つという共通の氏族意識を持っていたのである。このような氏族が初期水戸藩の太平洋岸の支配に関わっていたのである。
この渡辺氏は、水木村と同じ、水戸藩の船番所が置かれた那珂湊(茨城県那珂湊市)と磯原(同北茨城市)周辺に痕跡を残しているのである。そのことを次回に述べてみたい。
(続く)














