(再掲・私の先祖、その2)

 

 前回、自分の先祖の話(茨城県日立市、水戸藩領・水木村の漁師)から、江戸時代の初め、沿岸領の支配に関わった海賊の末裔、一字名の渡辺氏の話になった。その続きである。

(水木浜から沖合を望む)

 水戸藩に仕官した海賊の末裔の「渡辺猶」には3人の息子がいた。水戸藩の家臣の系譜をまとめた『水府系纂』には次のように出てくる。

 

  〈渡辺猶〉

  (前略)寛永八年辛未正月晦日死す。三男あり、長は半大夫滋、次は伊賀某、次

  を主税某と云う。

  半大夫滋、初名宗太郎、(中略)、父死して家督を継ぎ、三百石を賜りて船手頭 

  となる。支配の水主に故あるを以て出奔す。寛永年中恩命帰参せしめ、二百石を  

  賜い大番組となる。正保二年乙酉勘定奉行に遷り、寛文二年壬寅七月十四日死 

  す。

  伊賀某、初名五郎八、又大和、寛永年中切符を賜りて小姓となる。兄半大夫滋出 

  奔の後二百五十石を賜りて船手頭となる(中略)。寛永十九年、源英公に附属せ

  しめ、讃州に於いて禄を加えられて五百石となる。今子孫あり。

 

 長男が半大夫「滋」であり、次男が「伊賀某」で初めの名を「五郎八」という。三男が主税某である。

 この史料で注目したいのが、長男の「滋」と次男の「五郎八」の軌跡である。長男の「滋」は渡辺家の家督を継いで父同様に水戸藩の「船手頭」になった。兄が出奔した後は弟の五郎八がそれを継いだ。

(幕府の軍船「安宅丸」(「御船図」)。19世紀の想像図)

 

 「船手頭」とは藩の船舶行政を掌る役職である。幕府では軍艦の管理と海上輸送に関わる役職であった(笹間良彦『江戸幕府役職集成』雄山閣出版)。水戸藩の場合にも同様の役目であったと思われる。しかし、父の猶、長男の滋、次男の五郎八と「船手頭」を継いできたこの家は、太字で示したように、寛永年間の中頃の、配下の水主に問題があっての滋の出奔、その後の復帰と大番組・勘定奉行への遷職、さらに寛永18年(1641)の五郎八の讃岐移住と、これらの経緯に伴ってその職から離れ、海との結びつきを喪失してゆくのである。父の猶が藩主徳川頼房に従って水戸に来たのが慶長14年(1609)であったから、沿岸の海に関わっていたのは約30年間であった。

 

 この渡辺氏三代の海との関係をもう少し見ておこう。

(地図1。水木、大津、磯原、那珂湊、水戸の位置)

 父の猶は、伝承によれば、藩主が訪れる那珂湊(茨城県那珂湊市、地図1)の「御殿」(別荘)の管理者である一方、藩の海防を担当し、水主組(水夫)43人を配下において藩の軍船や藩主の遊憩船を操舵し、その「御船庫」も管理していた(泉彦九郎『水門志 全』)。これが水戸藩の「船手頭」の役目だったのである。

(那珂湊の「御殿」跡、のち光圀によってい賓閣となる)

(「御殿」のあった御殿山公園から那珂川河口の市街を望む、昭和初期の写真)

 

 次男の五郎八にも『寛永文書』の中に同様の史料がある。寛永12年(1635)の「人馬被召遣帳」の中に、藩主の頼房が那珂湊にやってきたとき、休息用のお茶屋二棟(これが「御殿」の始まりヵ)の他に「五郎八屋敷」に二棟の家を建造したと見え、寛永14年(1637)のものには、那珂湊の「船蔵」三棟の屋根の葺き替え作業の責任者と出て来るのである。五郎八は那珂湊に住み、父の猶同様、藩の「御殿」を管理し、藩船の「御船庫」(船蔵)の責任者であった。

(那珂湊港の漁船)

 ただ、『寛永文書』に載る別の史料にはこれらの業務とは異なる側面も見られるのである。

 

〈史料1〉

  御城に薪一円無之由、節々薪奉行より申来候、旧冬度々申越通り、無油断早々渡  

  海可有之候、又江戸への炭も、早々御越可有候、もし炭・薪、磯原へ出不申候は

  ば、早々書付を可被下候、忠右へ可申渡候、五郎八殿へ可申入候へとも、先如此

  候、薪・炭早々御とどけ可有候、以上。

       正月十三日        太郎左衛門

     斎藤猪之助殿

 

 これは寛永13年(1636)と推定される、水戸にいた郡奉行の野沢太郎左衛門が、磯原(茨城県北茨城市、地図1)の代官の斎藤猪之助に宛てた書状で、内容は水戸城に燃料の薪・炭がないので早く「渡海」(太平洋を船で)で送るように命じたものてある。磯原で薪・炭が集まらないならば、その旨を、同じ水戸にいる薪奉行の「忠右」に伝えるが、それと併せて、こちら(郡奉行野沢)からも「五郎八殿」へ申し入れると述べている。ここに船手頭の渡辺五郎八が出て来るのである。

(太平洋に流れ出る磯原の大北川河口。この一帯に港があった。ネット写真)

 

 郡奉行の野沢太郎左衛門は一体何を渡辺五郎八に「申入れ」たのであろうか。

 五郎八は船手頭であったので、燃料調達の中でも、おそらくそれは、船による「渡海」(海上輸送)に関わっての問題であろうことは容易に想像できる。

 

 船手頭は、先に見たように、幕府の例では軍船の管理や海防の役割を掌っており、物資輸送にも関わっていた。水戸藩でも同様の役割があったと思われるが、ただ「渡海」(海上輸送)に渡辺氏が管理する藩の軍船などを利用したとは考えられない。この時期の水戸藩の藩用物資(薪・炭など)の輸送には沿岸漁民の漁船が徴発されていたと推測されており(渡辺英夫『東廻海運史の研究』山川出版社)、そこからすれば、渡辺五郎八に「申入れる」中身は、輸送全般の中でも、沿岸漁民を通した漁船の差配であったのではなかろうか。渡辺五郎八は藩の薪・炭の物資輸送に関して、沿岸漁民と密接な関係を持っていたと見るのが自然なのである。水戸藩はそれに頼らなければ物資輸送が出来なかったのであろう。

(現在の大津港、ネット写真)

 (大日本物産図会 壱岐国鯨漁之図)

 

 漁船だけではなく、沿岸漁民の漁業との関係を推測させる『寛永文書』の次のような史料もある。

 

〈史料2〉

  松岡領、大津村之沖にて鯨を見つけ、四・五駄肉を切り取り候由、夜申来候、御

  大儀ながら其方御越候て、何程切り取り候哉、又まる鯨にて切り申し候哉(中

  略)、猶、又上がり申候鯨、其方御指図にて御取らせなされ、何ほどに売り申候

  と、御書付可給う候(中略)、

     亥四月九日     太郎左衛門

    斎藤猪之助殿

  右之鯨、亥四月五日に切り申候間、六日に渡申し、五郎八方へ改申候へば、かま

  い無き由申候に付いて、七日に大津へ其飛脚帰り、八日の晩に我ら方へ申来たり

  候、

 

 この史料は寛永12年(1635)、磯原のすぐ北の松岡領大津村(茨城県北茨城市大津港町、地図1)の沖合で捕らえられた鯨の処置について、先と同じく郡奉行野沢太郎左衛門が松岡領・磯原の代官斎藤猪之助に宛てた書状である。最後の三行の追而書きの部分がその処置以前にどのような動きがあったかを示している。そこに「渡辺五郎八」が関わっているのである。

 その意味をとってみるとつぎのようになる。

 

  発見した鯨を、大津村の漁民たちは沖合で4月5日に4・5駄分ほど切り取り、  

  翌6日に渡した(相手は不明)。その後の鯨の処置について、大津村の漁民たち

  は飛脚で那珂湊の渡辺五郎八へ「改」(検査・検閲)を申し入れたが、五郎八は

  「かまい無き由」(自由に処分してよい)と言うので、7日にその飛脚は大津村

  に帰って行った。その事情を8日の晩になって大津村漁民たちが水戸の「我ら

  方」(郡奉行野沢太郎左衛門)へ申し伝えてきた。

 

となる。本文の方は、その知らせを受けて9日にその後の処置を代官の斎藤猪之助に命じた内容である。

 鯨の最終的な処分権は郡奉行野沢にあったようで、こののち15日までには代官の斎藤猪之助と皆川茂左衛門の手によって売却されている(『寛永文書』)。

 

 ここで興味深いのは、鯨の処置について、大津村の漁民たちはまず最初に渡辺五郎八に「改」(検査・検閲)を申し込んでいる点である。その後「かまい無き由」(自由にしてよい)との返答を受けて、その上で郡奉行へ連絡を取っている。

 ここからは、民政一般を担当する郡奉行が関与する以前に、那珂湊の渡辺五郎八に「鯨」の処分に関する何らかの権限があったことが窺える。それは、藩の行政機構とは無関係に大津村漁民と相対関係で完了する権限であったのである。

 

 この「改」権が、鯨の処分権のみなのか、漁業権全般に関するものなのかは不明であるが、松岡領の漁民に関する問題なので、〈史料1〉で推測した、藩物資(巻・炭)の輸送において渡辺氏に沿岸漁船の差配が求められたことと同根の問題ではないか、と思う。漁船の徴発も渡辺氏が漁業・漁民の支配権を持っていたからではあるまいか。ここに認められるのは、郡奉行所ー代官という藩の行政組織とは別個に存在した渡辺氏独自の支配権である。さらにそれは藩の船手頭の役職(軍船の管理と物資輸送)とは次元の異なる沿岸漁民への関りでもある。

(源平合戦の時、源氏に味方した熊野水軍。壇ノ浦合戦(源平合戦図屏風))

(村上水軍のレース、ネット写真)

 これらの権限は、「海の民」の上に立つ一字名の渡辺氏の伝統的な性格と全く無関係であったとは到底考えられない。海賊であった中世の村上水軍や熊野水軍は配下の漁民を駆使し、そのナワバリ内で独自の海上交通権や漁業権を持っていたが、それと同じものを「海賊の末裔」渡辺氏が持っていたのではないか、と推測する。「次元の異なる」権限とはそういうことである。水戸藩の船手頭になり、軍船や藩主の遊憩船の管理を担ったが、それは役職として求められた表の顔であり、裏には一字名渡辺氏の漁民に対する伝統的支配権が潜在していたのではなかろうか。

 

 寛永年間が終わるころ渡辺氏は船手頭から離れ、海との結びつきを喪失して行く。滋が大番組に編入され、勘定奉行に遷ったのはそれを示している。

 

 この時期は幕府は3代将軍家光の時代であり、近世幕藩体制が最終的に確立していく時期である。士農工商の身分制も出来上がり、海賊は武士と漁民に分離されていく。水戸(地図1)では新たに城下町も整備され、海賊の末裔渡辺氏は海から切り離されて那珂湊から水戸に移り、近世的吏僚となっていく。漁民は百姓身分に固定され、沿岸の村々に縛り付けられていった。かつて海上を自由に行き来し、交易にも携わった性格も制限され、それは廻船商人の手に独占されて行くようになる。常陸沖の場合では幕府米・東北諸藩米を江戸に送るための太平洋海運の発達である。海防・流通統制の面でも水戸藩によって那珂湊・水木村・磯原の3か所(地図1)に船番所が設置され、藩士が常駐されて藩による機構整備が積極的になされて行った。

 

 渡辺氏が海賊の末裔として、「武」(海防)にも漁業にも物資輸送にも複合的に関わった時代、氏の性格が多様な職能として現れ、その自立性に支配を委ねていた古い時代が終わったのである。『水府系纂』に滋が配下の水主(水夫)の問題から出奔したとあるが、それは時代の趨勢に抗って生じた問題ではなかったであろうか。寛永年間の末期というのは中世から近世への大きな時代の転換点であったのである。

(水木浜の堤防から太平洋を望む)

 私の家は祖父の代まで半農半漁で、漁業専一ではなく農業にも比重を置いていた。江戸時代にも土地に縛り付けられた「百姓」であったことは間違いない。しかしそれは、この寛永年間末期を画期とする近世社会の成立の結果であり、とくに海賊に見られる「海の民」の世界の終焉の上に出来上がったものなのである。

(水木浜海水浴場にて父と、小学校4年)

 私の先祖とは如何なる存在であったのか。史料に残らないものを辿るのはしばしば夢想に終わる。幻想の生むロマンと言ってもいいかもしれない。しかし、子供時代に遊んだ水木浜の堤防から太平洋を眺めていると、私の身体の中に、荒海を「海の民」として縦横無尽に生き抜いた遠い先祖の血が甦ってきたような気がしてならない。

 

 

※以上(その1・2)は拙稿「常総の二つの渡辺氏ー戦国期・近世初頭の流通・交通関与の氏族ー」(『六浦文化研究』11号、2002年)の一部を、自分の出自に関連させて簡単にまとめたものである。