(『二十歳の原点』に想うこと)
(『二十歳の原点』新潮社、1971年)
(高野悦子さん)

(高野さんが通っていた当時の立命館大学広小路学舎)
私は『二十歳の原点』の著者・高野悦子さんと同じ立命館大学の、同じ文学部史学科日本史学専攻を卒業した。入学したのは1973年であり、高野さんが亡くなった4年後のことである。出身地も同じ北関東であり、今住んでいる茨城県古河市からは車で2時間ほどで高野さんの生地の栃木県旧西那須野町に行くことが出来る。
以前高野さんのことを書いたことがあったが(ブログ「『二十歳の原点』ー学生カードの写真を見出してー)、先日、思うところがあって高野さんのお墓を訪ねてみた。
9月に一度生地を訪ねたのであるが、その時は墓所の場所は分からなかった。その後『二十歳の原点』を詳細に研究したホームページ「『二十歳の原点』案内」(編集者 N. Kitamoto)を知り、そこの地図を頼りにもう一度訪ねてみた。
(高野家のお墓のある曹洞宗宗源寺の山門とその上の鐘楼。釣り鐘(愛の鐘)は悦子さんの菩提を弔うためお父さんの三郎さんによって寄付されたもの、旧西那須野町東町)
(高野家の墓所)
お墓のある曹洞宗宗源寺はすぐに分かった。高野家は、お父さん(三郎さん)が元西那須野町の町長もしておられた名家なので、相当の墓かと思って行ったが、他に比べてもごく普通のお墓だった。
(高野家のお墓)
(墓誌。三郎さんによって建立された)
(ご両親の左側に戒名「高学院純心法悦大姉」とある)
(戒名の下に「昭和四十四年六月二十四日 悦子 二十才」と刻まれている)
墓所の中央奥には「高野家之墓」の墓石が立ち、右手前に墓誌、左手奥に塔婆入れの囲いのある簡素なものだった。墓誌の最後に、父(三郎さん)・母(アイさん)に続いて「高学院純心法悦大姉」という戒名が刻まれており、その下に「昭和四十四年六月二十四日 悦子 二十才」と、卒年月日や俗名・年齢があった。しかしその文字は小さくひっそりとしたもので、とても『二十歳の原点』の著者を感じさせるものではなかった。
高野さんのお墓を訪ねてみようと思ったのは二つの理由があった。一つは高野さんの死の直後に同じ大学・専攻を卒業した者として、自分の学生時代を高野悦子さんのそれに重ねて振り返っていたこと、もう一つは自分の人生の「喪失」に重ねて、ご両親のその時の想いや、その後の来し方に思いを馳せていたことである。
『二十歳の原点』は、よく知られているように、高野さんの日記のうち、京都時代の亡くなる約半年間の部分を出版したものである。お父さんが下宿先で十数冊の日記を発見し、その部分を自らまとめ、最初地元の文芸誌『那須文学』(第9号、1970年)に発表され、その後新潮社によって『二十歳の原点』として1971年に出版された。
『二十歳の原点』は、理想と現実のギャップ、恋愛の葛藤と挫折、生と死の間に揺れ動く心情など、青年期特有のテーマが描かれているため、時代を超えて若者に読み継がれている。出版当時はベストセラーであり、私も入学前の18歳の時に読んでいた。
高野さんが立命館大学の2・3回生であった時期、1969年の1月、大学では、後に「立命館闘争」と呼ばれる苛烈な学園紛争が起こっていた。原因の一つは大学寮の寮費とそこでの自治の問題であったが、闘争の一方の当事者であった反日共系の立命館全共闘が、大学本部のあった中川会館にバリケードを築いて占拠し、その事態をめぐって、大学当局だけではなく、根底にあった日共系の民青との対立も激化し、後には日本史専攻の教員たちも辞職するという、大変な混乱に至るものであった(闘争の詳細は前掲のホームページ「『二十歳の原点』案内※」(N. Kitamoto)に詳しい)。
※なお N. Kitamotoさんによるこのホームページは『二十歳の原点』を資料や聞き取りを基にして多方面から調査した極めて優れた研究で、事実関係や高野さんが置かれていた環境・背景を知るに最適のものである。本ブログもそれに多くを拠っている。興味のある方は参照されたい)
(立命館闘争)
入学後間もなく民青系のサークル(部落問題研究会)に入っていた高野さんは、その後立場を変え、この闘争の段階ではノンセクトの全共闘シンパとしての立場であったが、まだ行動を共にするものではなかった。変化したのは、2月13日の中川会館への泊まり込みであり、2月20日になされた機動隊の導入であった。正門バリケード前でスクラムを組みシュプレヒコールの声を上げるなど、傍観者の立場から初めて全共闘への支持を行う行動者になっていった。
ただ機動隊による中川会館封鎖の解除後も全共闘と民青との対立は続き、そこに関与するなどの紆余曲折を経て、高野さんは6月24日の未明に鉄道自殺を遂げることになる。その死は思想的問題だけではなく、後述するように恋愛問題も背景にあった。
「立命館闘争」の終焉後には、学内では民青の力が一方的になり、私たちの入学した4年後には、もう「立命館闘争」の名残は何処にもなかった。
(入学時の日本史専攻クラスの写真、1973年。前から3列目、右から5人目が私)
私の入学した当時も高野さんの時期と同じく民青の勧誘(オルグ)が盛んであった。専攻行事やサークル活動を通して日本史専攻でも真面目な新入生は少なからず民青に加入していった。地方出身で右も左も分からない私もそこに加わったが、しかし「個」の自由な意思・行動よりも「組織」を重視するその在り方に疑問を感じ、間もなくして辞めていくことになった。高野さんと同じノンセクトの立場に自らを置いて行った。同じように残るか辞めるかの判断に迫られた者も多く、一方では民青からそのまま入党する者、一方では民青・党を批判する者と言う関係となり、日本史専攻の中でも人間関係は微妙で複雑なものとなっていった。高野悦子さんと同じような葛藤と対立・決別があったのである。
(日本史専攻学生による市民向け「夏期日本史公開講座」の集合写真(1975年)。専攻行事の一つであり、高野さんの時期にも行われていた。毎年夏の京都祇園祭の時期を挟んで10日間ほど行なわれ、学生の報告の後、時代ごとの研究者の発表があった。民青系の学生が中心であったが、多様な学生が参加していた。前列右から2人目が私)
私たちの時代は、闘争時代のような大規模かつ大学当局に対する運動はなかったものの、このように学生間における民青とノンセクトの反目・対立は高野さんの時代と同じようにあった。その中で、3・4回生のとき(1975・6年)には小選挙区制反対闘争や京都で起こった八鹿高校事件問題を契機に、反民青系の学生が民青系の学友会室を実力占拠したり、抗議集会で反民青系の学生が刃物で刺される事件も起こっていた。その時は学内は騒然とした雰囲気の中にあった。
私はその時期、ベ平連などの「個」の自立と「連帯」を主張する市民運動に共感を覚え、運動を行っていた人たちが加わっていた雑誌『思想の科学』の京都読者の会に参加し、民青・党の友人たちに対しては距離を置くようになっていた。
(雑誌『思想の科学』)
(21歳の時のインド旅。インドのベナレスの雑踏にて。1か月の旅をした)
3回生から中世史の三浦圭一ゼミに入り、本格的な勉強を始めたが、当時主流であったマルクス主義歴史学に視点を置きながらも、機械的にそれを当てはめようとする教条的な研究動向には違和感を感じ、自分なりの視点を作りたいと考えていた。
クラスの中には民青系やノンセクトなどの活動家の他にノンポリ学生も多くいたが、その中にはバックパッカーとして世界放浪をする友人もいた。
べ平連の小田実の『なんでも見てやろう』や当時のアジア史との比較で中世社会を検討する新しい研究の影響もあり、3回生の冬、日本の中世社会のような古い社会を残しているインドへ旅発った。そこで見たものは、カーストによる非人間的差別と犬猫の如く生きる人々の貧困の凄まじさであり、これが現実の社会・人類の歴史なのだと衝撃を受けた。その後の人生・研究生活に計り知れない影響を受けたのである(ブログ「30年ぶりのインドひとり旅」)。
高野さんがその繊細な感受性から「孤独」「未熟」を抱えて内側へ向かっていったのに対し、私は未知なる「外の世界」へ向かっていったと言えるのかもしれない。それが同じ地点に立ちながらも最も違っていた点だったのかもと、今は思う。
ただ、そのような綺麗ごとではない葛藤もあった。高野さんと同じように「恋の挫折」もした。4回生の時期には、愚かさと若さの「未熟」さ故に、高野さんの亡くなる直前の混乱した状況と全く同じ精神不安の状況にあった。誰しもそうであろうが、真剣であったが故に、喪失感と自己を否定された思いで自殺の衝動にも駆られた。己の責に帰することとはいえ、今でもその痛みは消えていない。『二十歳の原点』の葛藤する恋心の部分や「『二十歳の原点』案内」(「自殺当夜の真相」)に詳細に記されている、自殺の直前、精神不安定のまま恋い慕う男性の許を訪れる箇所は自分自身の姿でもあった。自殺しなかったのは、生来の「外」へ向かう気質ゆえであったのかもしれない。
他人の自殺の理由など軽々に論ずるものではないが、「思想」や「生き方」などの形而上的問題では人は死なない。日記で苦悩するように、高野さんの自殺はやはり「恋心」と癒されない「孤独」から来る心の深部の問題にあったと、私は思う。ただそれも個人的な推測の域を出るものではない。
今でも『二十歳の原点』は読むのに躊躇する。治りかけた傷の瘡蓋を引き剥がされる思いがするのである。森田公一とトップギャランの『青春時代』の歌詞の中に「青春時代が夢なんてあとからほのぼの思うもの、青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」と言うフレーズがあるが、長い年月を経ても「ほのぼの思う」気持ちには未だ成れていない。
『二十歳の原点』の時代だけでなく、私たちの学生時代にも「高野悦子さん」がいて、それを取り巻く「恋人」や「友人」たちがいた。傷つけ合ったそれらの人間関係の織り成す模様の中に50年前の私の青春時代があった。
高野さんとほぼ同じ時期に、同じ大学、同じ専攻で学び、似た環境に生きたというだけで、このような稚拙で勝手な文章を書いてしまった。忘れ難き京都の青春時代の自分の姿を高野さんのそれに重ねたものである。亡くなって半世紀以上の時が過ぎてしまったが、生き続けたものとして、心よりご冥福を祈りたい、という思いである。
晩秋の小雨の降る中、墓前にて。












