〈古河のもう一つの港津・悪渡〉

 戦国時代の古河にはもう一つ港津がありました。古河を通る佐野道が渡良瀬川と思川を越えるところとなる悪渡(戸)です(図1)。ここは北からの思川も合流する川又のところで(以下写真)、対岸は下野国(栃木県)に入る下宮村です。その先端はとくに「舟津」と呼ばれ、その名のように港津の性格も持っていたようです。

 ただここは、古河舟渡のような港津と言うよりも「渡し場」の性格が強く、船賃や通行する船から通行税(船役)を取る川関の機能も持っていたようです([内山2002]、ブログ「古河公方と川の民」(その2))

 

(図1、古河悪戸と下宮舟津の位置)

(古河悪戸から見た下宮舟津。明治時代。もう渡船ではなく船橋が架かる)

(舟津の先端部分。右が思川、左が旧渡良瀬川)

(舟津の先端部分を後方から見る。堀切で区切られており、先端部分はとくに小高い丘になっている。左が思川、隠れているが右側が旧渡良瀬川になる。通行する船を監視するような立地や地形になっている)

(基部と先端の小高い丘の間にある堀切。丘側から見る。右は思川。かつてはこの堀切に通行する船を引き入れたのかもしれない)

(小高い丘の部分から川又の部分を撮影。左が思川、右が旧渡良瀬川になる。通行する船を監視するには最適の場所)

(基部の箇所にあった盛り土された平場。ここに「屋敷」(船役徴収施設)があったのかもしれない)

 

〈悪渡・下宮の有力者茂呂氏〉

 ここの有力者であった茂呂家には、戦国時代の終わりごろ(天正13年・1585)、最後の公方義氏の亡き後ですが、古河城に拠った勢力から与えられた文書4点が伝わっています([内山2002]、ブログ「古河公方と「川の民」(その2))。それによってこの地の実態が分かります。少し専門的になるのですが、それらの内2点を簡単に紹介してみたいと思います。 

(天正13年、茂呂但馬守宛て某預置状写)

 これは、公方側が「茂呂但馬守」なる人物に宛てた文書で、但馬守の「侘事」(要求)を聞き入れて、「悪渡」での「船役」徴収の権利を「屋敷」とともに「預け置く」というものです。年次は干支の「酉」から天正13年(1585)のものと見られます。

 この文書は写しなのですが(『古河志』)、別の文書から差出人は、当時古河公方家を庇護していた小田原北条氏一族の北条氏照(栗橋城主、茨城県五霞町元栗橋)の関係者と見られます。

 

 受取人の「茂呂但馬守」は、近世下宮村で渡し守をしていた「茂呂市郎兵衛」(『古河志』)なる人物の先祖と思われ、「但馬守」を名乗っていることから戦国末期には武士身分であり、『古河志』の公方旧臣との伝承からはその家臣の一人であったと見られます。

 ただ、茂呂家の家業が近世になって「渡し守」のみになることや、古河公方家が近世初頭に喜連川(栃木県)に転じてもそれに付き従わなかったことから、一般家臣ではなく、地元に根付いた「地侍」クラスの家臣ではなかったかと思われます。宛名の敬称が「との」と軽意の平仮名で書かれていることもそれを示しています。

 

〈川関の様相、悪戸と下宮舟津〉

 「悪渡」とは、古河「悪戸」(茨城県古河市)のことです。最初に述べたように思川を挟んだ下宮村舟津の対岸になります(図1)。「船役」とは、この場は渡船場なので、その渡し賃や、通行する船にかけた通行税のことと思われます。「屋敷」とはそれを徴収する施設のようです。後述するように、対岸の舟津にも茂呂氏は「屋敷」を与えられており、渡河点である思川の両岸を挟んで通過する船から通行税を徴収していたようです。図示すると下のようになります(図2)

(図2、悪戸と下宮舟津の「屋敷」)

 川での通行税の徴収と言えば、何よりも中世の時代の関所、とくに畿内の兵庫関(兵庫県)や淀津(大阪府)など海岸や河川などに広く設置された経済的「関」を思わせます。

 茂呂氏は、「侘事申上」とあるように、自ら公方権力、とくに古河城に居た北条方に要求して関所役人の権利を求め、それが許されたのがこの文書であったようです。

 

 なお天正13年(1585)当時の古河城には、最後の公方足利義氏が3年前の天正10年に亡くなったため、替わって複数の奉行人たち(御連判衆)が家中を取り仕切り、義氏の幼い遺児・氏姫を支えていました。しかしそれと同時に、北関東に勢力を伸ばしてきた北条氏照の城番が古河城に入っており、さまざまな指揮を執っていました。この文書もその一つと思われます。つぎに述べるように、城中では、足利家奉行人と北条氏照勢との間に少なからず対立もあったようです。

 

〈川関の利権をめぐる地元の有力武士〉

(天正13年、茂呂雅楽助宛て芳春院松嶺宛行状)

(同上、上文書の釈文)

 これは、最初の文書の2か月後に出された文書で、差出人の花押(サイン)や「芳春院」という差出人名から、最後の公方足利義氏の奉行人筆頭であった「芳春院松嶺」なる人物(僧籍)が出したものです。北条氏照勢が出した前の文書とは異なり、同じ古河城中にいた足利家奉行人勢が出したものということになります。

 松嶺は義氏の側近ナンバーワンであった前院主芳春院周興の跡を継いだ住持で、周興同様、財政を担当する公方政所の責任者でもあったと思われます(稲垣泰彦「古河公方と下野」[内山2007a])

 内容は、「舟津屋敷」について今度城中で評定(話し合い)があり、「兵庫」と交換してそなた(茂呂雅楽助)に預けることに決着した。ただ仕事は決められた職務以外のことはやってはいけない。やった場合はそなたの落ち度になる。よくよくそれを理解しておくように、というようなものです。「茂呂雅楽助」は前の「但馬守」の親族か一族になると思われます。

 「舟津屋敷」の「舟津」とは、他の史料には「下宮ノ舟津」(石塚照吉由緒書)と見え、下宮の地名、とくに下宮の川又の先端部分の地名です。

 ここからは、前にも述べたように悪戸の対岸である下宮村舟津にも茂呂氏の権利が及び、思川を挟むように両岸に「屋敷」(船番所)を持ち船役を徴収する茂呂一族の姿が浮かび上がって来ます。

 

 ここで注意したいことは「兵庫与居替」とあるように、「兵庫」なる人物を替えて「雅楽助」を新たな下宮舟津の関所役人に任じたことです。さらに「評定落着」とあるように、古河城中で議論があり、「仕置之外不可有之」「相違ニ付而者、其方可為私曲」とあるように、決められた仕事(仕置)以外の勝手な行動はするな、した場合に私的行為(私曲)と見なす、とその行動に制限を加えていることです。

 

 ここから分かることは、茂呂雅楽助を任ずる以前には「兵庫」なる人物がその役目を任されており、芳春院松嶺など足利家奉行人たちは「兵庫」を支持していたが、おそらく茂呂雅楽助を支持する同じ城中の後北条氏勢力に押され、話し合った(評定)結果やむなく雅楽助を認めるということになったということです

 前の文書に茂呂但馬守が「侘び事」してその権利を求めたように、この下宮・悪戸の川関をめぐって地元の勢力はその利権を争っており、それだけ実入りのよい業務であったことが分かります。またそれは最終的にそこを支配していた古河公方権力内部にも対立を生むほどのものであったということになる様です。 

 

 詳しくは述べませんが「兵庫」なる人物は、茂呂氏と同じような公方義氏家臣で、利根川に面して渡船場の有る上野赤岩(群馬県邑楽郡千代田町)付近の武士舞木氏(「兵庫大夫」舞木景隆(藤原景隆・定綱)、鑁阿寺文書)と見られ、芳春院周興・松嶺の配下にありました([内山2002]、ブログ「古河公方と[「川の民」(その5)」)

 またこれも詳しく述べませんが、悪戸・下宮舟津の権利は、義氏が公方に就くことになる1553年以降には、北条氏方に就く公方家臣野田氏の家人で、陸上・水上交通・交易に長じた商人的武士石塚氏に与えられたものでした(石塚照吉由緒書、[内山2007b]ブログ「古河公方と「川の民」(その5)」)

 ここの利権は栗橋石塚氏→赤岩付近の舞木氏→下宮茂呂氏と変遷したものと思われます。これらの氏族は河川交通・水上交易を特色とする古河地域に簇生した氏族であり、この地の利権をめぐって熾烈な競合をする関係にあったようです。

 

〈北関東の物流上の要の下宮・悪渡〉

(下宮・悪戸と河川を通じて結ぶ北関東の伝統的領主層)

 下宮・悪戸の地は、北関東の上野・下野から流れ下る重要河川の渡良瀬川と思川の合流する川又地点で(図1)、北関東の地域と中部関東・南関東を経済的に扼する重要な河川交通の要地です。中世にはこの川沿いに下野に小山氏、上野に佐野氏・足利氏・新田氏などそうそうたる大名クラスの豪族が盤踞し(図3)、中部・南関東を支配する鎌倉幕府、鎌倉府、上杉氏、小田原北条氏と共存・対立を繰り返すことになります。南北両地域が年貢や商品の輸送などで密接な関係を結ぶうえで、この下宮・悪戸は交通上重要なポイントの一つとなった場なのです。古河公方が古河に拠点を置いた理由の一つにはそのような地理的特異性があったのです。

 

 戦国期古河には重要な港津が二つあったと思われます。一つは公方成氏の移座で多くの都市人口を抱えることになった都市古河の経済的窓口の古河舟戸の港であり、もう一つは北関東と中部・南関東間の河川交通・物流を扼するポイントの一つで、経済的に南北の政治勢力の喉元を抑えることのできる下宮・悪戸の港津(川関)でありました。

 古河公方権力とはこういう経済的ポイントを抑えることで成立・存続し得たのです。

 

 つぎには茂呂氏など下宮・悪戸で活動した人々の特性=「川の民」としての性格を見て行きたいと思います。

 

(続く)