(西安の旅、その4)

 

 西安は古代の唐王朝の時代には長安と呼ばれ、都であると同時にシルクロードの東の起点・終点であり、国際都市であった。そのシルクロードは、海上を越えて奈良時代の日本にもつながっていた。

 日本は、すでに飛鳥・藤原京時代には遣隋使・遣唐使がもたらした律令制度や仏教によってそれまでの伝統的な古代社会を大きく変化させていたが、奈良時代には東大寺大仏や正倉院御物に見られるように、唐の文物・技術の移入によって国際色豊かな天平文化が花開いていた。平安時代には、遣唐使に従って入唐した空海・円仁らによって密教が伝えられ、大和の高野山、京都の東寺や延暦寺を中心に真言宗・天台宗が広まっていった。

 ただ今回のブログは、奈良・京都の都に止まらず、日本の地方、とくに私の住んでいる茨城県古河市にも、以後の歴史の経緯を経て古代中国・唐王朝の文化の痕跡が残されていることを紹介したい。

(華清坊と呼ばれる一画。この建物の2階に火鍋専門店があった)

 

 私たちは午前中に兵馬俑と始皇帝陵を見学し、昼は近くの華清(かせい)宮の傍にあった「火鍋料理」の店で昼食を摂った。鼻清宮とは、あの有名な楊貴妃と玄宗皇帝の滞在した離宮で。温泉が湧き「長恨歌」にも楊貴妃の湯浴みの地として詠まれている。ただコースには入っておらず、そこには立ち寄らなかった。

(火鍋料理店「菜鮮堂」で昼食。火鍋料理は華北料理の一つであり、元来は日本の鍋物のように皆で一つの鍋をつつくものだが、最近は「一人鍋」が流行っており、回転寿司のように食材が回ってくる店が繁盛しているという)

 

〈興慶宮・安陪仲麻呂記念碑へ〉 

(地図1、阿部仲麻呂記念碑と青龍寺の位置)

 

 昼食後、私たちのバスは再び西安の街に戻り、最初に、興慶宮跡にある阿倍仲麻呂の記念碑を訪れ、次に空海ゆかりの地の青龍寺に立ち寄った(地図1)。ともに現在の城壁の外ではあるが、かつての長安城内に位置していた。

 

 2時半ごろに興慶宮に着いた。ここは玄宗皇帝が政治を執った王宮だが、その跡は礎石ぐらいしか残っておらず、今は公園になっている。

 公園内の一角には遣唐留学生で著名な阿部仲麻呂の記念碑があり、それを見学した。仲麻呂の屋敷はこの付近に在ったと言う。この碑は、1979年に、西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して立てられたものだとガイドの馬さんが説明していた。

 

〈空海ゆかりの青龍寺へ〉

恵果和尚と空海)

 つぎに比較的近くにある青龍寺に向かった(地図1)。よく知られた話ではあるが、空海はこの青龍寺で805年に中国真言密教の高僧・恵果(けいか)和尚から阿闍梨の位に上る「伝法灌頂」を受け、帰国後に真言宗を始めることになる。その点で、青龍寺は日本密教成立の嚆矢たる寺院なのである。

(青龍寺へ入る)

 

 私たちは境内に入り、空海の伝法灌頂の像や空海記念碑を見、寺の中で寺のガイドさんから説明を受け、最後に恵果・空海記念堂に入り、いくらかの寄付をして永代供養のための記帳を行ったりした。

(息子と恵果・空海記念堂に入る)

 

 なお青龍寺は、空海が帰国した後、唐末五代の動乱による唐の衰退に伴い廃寺となり、その旧地すら不明となっていた。しかし1982年以来、西安人民政府が青龍寺の遺址と伝承されてきた一帯の発掘調査を行い、そこでは多数の唐代の遺物が見出されて、改めて旧所在地として確認された。その後そこに現在の青龍寺が再建され、また境内には、日本からの寄付で空海記念碑や恵果・空海記念堂が建てられた。私たちが行った青龍寺、とくに恵果・空海記念堂はそういう経緯で出来上がったものなのである。

 

〈青龍寺出土の銅製三鈷杵と共通する高野山金剛峰寺の銅製三鈷杵〉

 ところで最初に、唐の文物の移入が、奈良・京都などに止まらず歴史的経緯を経て私の住んでいる茨城県古河市にも及んでいると書いたが、それは、先の西安人民政府による所在地発掘調査での出土遺物が関わっているのである。その点を少し述べてみたい。

       

(写真1、青龍寺跡から発見された銅製三鈷杵。右側が欠損している。個人撮影。大柴 後掲論文より転載)

   

(写真2、高野山金剛峰寺所蔵、伝円行請来、金銅三鈷杵、大柴後掲論文から転載)

 

 出土遺物の中で注目されたものに、密教の修法で使用する「三鈷杵」(さんこしょ)という法具(写真1)がある。銅製(元々は金メッキした金銅製ヵ)であるが、実はこの形状が、高野山に伝わる、空海の弟子円行が唐から839年に持ち帰ったという「三鈷杵」(写真2)と細部に至るまで類似しているのである(大柴清園「青龍寺出土の三鈷杵と金剛峰寺所蔵の三鈷杵」①『高野山時報』)

 円行は838年の入唐僧の一人で、青龍寺で恵果の後継者の義真から真言宗を学んだが、帰国後に唐よりの請来品を『霊巌寺和尚請来法門道具等目録』として書き上げ、そこには、三鈷杵が空海の師の恵果和尚の所持品であったと記している。上の青龍寺跡からの三鈷杵の発見は、高野山の三鈷杵の由来の正しさを示し、またこの地が青龍寺跡であることを改めて確認させるものとなった。

 

〈東寺所蔵の空海請来密教法具と古河市小堤・円満寺所蔵密教法具〉

 この唐よりの請来品である三鈷杵にも関わって注目されるのが、それ以前に空海が唐よりもたらしたという密教法具(金銅製五鈷杵・五鈷鈴、写真3)と、私の住んでいる古河(茨城県古河市)の真言宗古刹の小堤・円満寺所蔵の密教法具(金銅製三鈷杵・五鈷鈴)(写真4)である。

(京都・教王護国寺(東寺))

(写真3、京都・教王護国寺(東寺)所蔵の金銅製五鈷杵(手前)と五鈷鈴(後方)。下台の金銅製金剛盤ともに昭和36年に国宝に指定)

 

 まず東寺の密教法具(金銅製五鈷杵・五鈷鈴)を見てみたい。

 これは上の青龍寺出土品や円行請来品と比較すると、表面の金メッキを施した金銅が残っている上に、銛先や把手部分の細部の造作も精巧であり、より優品であることが言える。

 空海は唐から806年の帰国に際して、師の恵果から贈られた仏舎利や仏具、唐で求めたり書写した数多くの経典を日本に持ち帰っているが、この法具もその一つであり、持ち帰った品を書き上げた「弘法大師請来目録」にもそれが記されている。したがってこの法具は、恵果より贈与された可能性が高く、上の青龍寺出土品や円行請来品と同様、青龍寺使用の法具に連なる品と言えるであろう。

(茨城県古河市小堤・真言宗豊山派地蔵院円満寺)

(写真4、茨城県古河市小堤・円満寺所蔵の金銅製三鈷杵(右)と五鈷鈴(左)。ともに茨城県指定文化財)

 

 つぎに古河・小堤円満寺の法具を見てみよう。

 寺伝では空海の湯殿山への巡錫の折り、所持の二品を留めたものと伝えるが、これについては美術史家の後藤道雄氏による研究がある(後藤道雄「茨城県に遺る中国唐代の美術」〖茨城県立歴史館報〗9号)

 後藤氏によれば、両品とも金銅製であるが、唐代の制作になる形態を持ち、中国からの請来品と推測される。五鈷鈴(上写真左)の方は、全てに古式で崩れや形式化は全くなく、日本の密教法具の中でも最高傑作の一つになるという。大きさの点でも上の東寺の例と共に大型のグループに位置づけられるという。同三鈷杵(上写真右)の方もすべての面で古式で先鋭な相を呈し、、古式である奈良正倉院の三鈷杵と上の東寺の五鈷杵との間に位置づけられ、大きさも最大級のグループに入り、盛唐期(8世紀前・中期)まで遡る遺品と評価される。ともに密教法具全体の中でも最優秀の出来栄えであると評価されている。

 

 円満寺のものは両品とも、先の円行や空海の請来品と同様、唐での作品、とくに三鈷杵の方は盛唐期の作品と位置づけられるわけだが、前の空海請来の東寺の密教法具と比べた場合どうであろうか。

 鈷杵は槍型の武器を表現したものだが、両者は左右の先端の銛の部分(3本と5本)の細部に違いがある。円満寺の方が、尾を引く雲形のギザギザ状突起を付随し本来の武器の様相を残しているのに対し、東寺のものはただの丸い突起となって形式化している。他の箇所も造作や精巧さでは円満寺の方が優れている。

 五鈷鈴においても同様で、円満寺のものは三鈷杵と同じく上の銛の部分に三日月状のギザギザ突起が入っているが、教王護国寺のものは突起すら存在しない。他の造作においても円満寺のものがより精巧に作られている。

 

 東寺のものが形式化・簡略化された点を持つことからすると、小堤・円満寺のものは、同じく唐で作られたものでも、空海請来のそれよりも時代的には遡るもので、空海が日本に請来した806年よりも古い製作となることはほぼ間違いない。盛唐期(8世紀前・中期)との後藤氏の推測はそこから来ている。

 この工芸技術の高さから見て、制作・使用された場所もおそらく長安の寺院であり、密教法具であることからは、制作寺院は青龍寺なども想定されるが、8世紀前・中期と言う制作時期やその時期には青龍寺は密教化していないことから、別の密教寺院という可能性も残す。空海請来の東寺の密教法具が、青龍寺の恵果からの贈与品ということで由来と経緯が明確であるのに対し、これは青龍寺に限定しないで広く長安の密教寺院との関係やその移入契機を考えた方がよいかもしれない、

 なお唐伝来の3つの密教法具の年代観と変遷を示せば下のようになる。

 

 

 しかし、いずれにしても空海以前の密教法具が、京都や奈良ではなくはるか離れたこの茨城県に遺っているのである。空海の来錫時にもたらされたと言う伝承は後世の付会であろうが、なぜこのような密教法具の優品が古河の地に伝えられたのか、これは大きな謎である。

 ただ地域性を考えれば、作られた8世紀にこの地まで移入されたという蓋然性は極めて低いであろう。後の時代の中国から日本への伝来や、その時代の歴史的条件からのこの地への搬入ということも考えねばならない問題なのである。これについては以前のブログで私の考えの概略を述べておいたが(ブログ「東国武士と京都文化」)、詳しくはまた別の機会に述べてみたい。

 

 今回は、青龍寺を訪れた際に、古代における中国と日本との文化交流、とくに地元の文化遺産に思いを馳せてみて、上のような文章を書いてみた。

 

 

 ※古河小堤円満寺の密教法具については『総和町史通史編 原始・古代・中世』(2006年)の拙文の一部を要約したものである。

 

(続く)