私が企画した歴史シンポジウムの2つ目は、平成22年(2010)に(茨城県)古河市教育委員会の後援で行った「古代・中世の古河地方を見直すー川戸台遺跡から古河公方までー」であった。
(シンポジウムのポスター)
これは、長年お世話になっている元古河歴史博物館館長の鷲尾政市さんと二人で始めたものだった。
名目は、平成22年が古河公方足利成氏の鎌倉から古河へ移って555年となること、町村合併で新「古河市」が発足して5周年を迎えることなどを記念するものであったが、直接のきっかけは、前年の21年に古河市牧野地で東日本最大級の古代製鉄遺跡の川戸台遺跡の発掘調査が行われたことだった。この遺跡の発見によって古河地方の新たな古代・中世像が描けるのではないか、という問題意識が私たちにはあった。『古河市史』通史編以後の新しい研究成果を市民に還元したいという思いであった。
(川戸台遺跡の発掘現場、古代軍団兵士携帯の膨大な鉄鍋の鋳型が発見された)
(鉄鍋鋳型ほか出土遺物の検討会での陳列)
経過は、私の方から鷲尾さんに相談を持ち掛け、二人でシンポジウムの人選や会場・予算措置など古河市教育委員会への協力依頼を行った。
(古河市庁舎隣のスペースU)
その年の秋、11月27日に古河市役所古河庁舎隣のスペースUを会場にしてシンポジウムは開催された。
基調講演者・報告者と内容は以下のとおりであった。
発掘調査報告
新堀 哲 「川戸台遺跡ー古代の大規模製鉄・鋳造遺跡の廃滓場と工房跡ー」
基調講演
市村高男 「古河公方の成立とその歴史的前提ー列島の中の古河地域ー」
報告
村上慈朗 「古河市周辺の河川流路の変遷について」
内山俊身 「征夷事業と古代猿嶋郡」
高橋 修 「下総西部から見た平将門の乱」
永井 晋 「金沢氏領下河辺荘と古河地方」
阿部能久 「鎌倉公方から古河公方へ」
討論のコーディネーター 中村良夫 鷲尾政市
これらの方々の当時の所属は、新堀さん(武蔵文化財研究所研究員)、市村さん(高知大学教授)、村上さん(茨城県立坂東総合高等学校教諭)、私(茨城県立境西高等学校教頭)、高橋さん(茨城大学教授)、永井さん(神奈川県立金沢文庫主任研究員)、阿部さん(大田原市那須与一伝承館学芸員)、中村さん(東京工業大学名誉教授)、鷲尾さん(古河郷土史研究会会長)であったが、この人選はいずれも古河地方関係の研究で最新の成果を残している方々で、時代性や関連性を配慮してお願いしたものだった。
当日の講演・報告ともいずれも素晴らしいものであったが、印象深いものに、新堀さんの川戸台遺跡の概要報告、市村さんの古河公方成立の前提の講演、村上さんの河川流路変遷の報告があった。
新堀報告は、川戸台遺跡の正式報告書が出る前のもので、市民に遺跡の重要性を発掘担当者から周知するものであった。
市村基調講演は、シンポジウムの意図に添って、戦国期古河公方成立に至るまでの古河地方の重要性を講演したもので、ややもすると中・南関東の視点から語られることの多かった戦国東国史を北関東から見直し、戦国期「関東の都(東都)・古河」という視点が強調された。後の同氏の名著『足利成氏の生涯』(吉川弘文館、2022年)へ繋がるものであった。
(村上慈朗氏、60歳の還暦のお祝いの写真)
村上報告は、古河周辺の河川流路の変遷を旧石器時代から近世初頭の利根川東遷事業まで追ったもので、河川工学の視点から非常に説得力のある報告であった。とくに関東の二大河川水系の連結・非連結で長く学会論争のあった問題を、「原逆川」の存在を指摘することでほぼ決着させた貴重な報告であった。同氏の報告の前提となる「総和町および周辺地域における河川の変遷について」(『そうわ町史研究』5号、1999年)はいろいろな所で引用されており、この報告は本シンポジウムの高峰であった。
(永井路子さん。古河の古くからの商家のお生まれ。ネット写真)
思い出すのは、このシンポジウムに、古河市出身の歴史小説家で、直木賞作家の故永井路子先生(古河市名誉市民)にご来場いただいたことであった。会場では簡単なご紹介しか出来なかったが、後にシンポジウム報告書としてまとめた『古河の歴史を歩く』(高志書院)には「古河市の魅力に触れて」という序文を寄せていただき、このシンポジウムに華を添えていただいた。
(シンポジウム成果報告書の『古河の歴史を歩く』高志書院)
上のように、このシンポジウムの成果は2年後の2012年に『古河の歴史を歩く』(高志書院)として刊行できた。報告論文の他に、コーディネーターの一人、中村良夫さんから「都市・古河のゆくへと町づくり」、鷲尾さんから「古河公方の史跡を歩く」、美術史家で古河市文化財保護審議会委員の平井良直さんから「古河公方ゆかりの美術」の玉稿を寄せていただいた。出版は高志書院さんのご協力を得られたものであったが、鷲尾さんの負担が大きく、鷲尾さんがいなければ出来上がっていなかったものである。
(鷲尾さん(後列右端)。古河公方家臣野田氏の野田文書の調査の折りの写真。当時古河歴史博物館の館長であった。同じ後列左から3人目が私)
ただ、このシンポジウムは川戸台遺跡の発見をきっかけとしていたとはいえ、正式報告書はまだ刊行されていない段階で、遺跡の歴史的位置付けとそこから見えてくる古河の歴史は今後に残された課題であった。それについては7年後のシンポジウム「古河川戸台遺跡をめぐる諸問題ー対蝦夷戦争・天台教団・平将門の乱ー」(平成29年)で、改めて議論されて行くことになる。