歴史のシンポジウムに報告者として出たことは何度もあるが、自分が主催者側として行ったことは3回しかない。

 

 1回目は平成18年(2006)に、当時勤めていた茨城県立歴史館で、業務の一つとして行ったもので、あと2つは、歴史館から高校現場に戻った時期に、古河市教育委員会主催という形で行ったものである。

(茨城県立歴史館、水戸市。左側の建物がシンポジウムを行った講堂)

 

 平成18年の最初のもの(中世東国の内海世界ー霞ヶ浦周辺の新しい歴史像を描くー)は、強い危機意識の中で行った。当時の歴史館は指定管理者制度が始まって、入館者増が至上命題になっていた。「見せる」博物館部門(学芸部)や教育普及など県民向けの事業が重視され、前提とすべき専門的・基礎的な研究を行っていた史料部は軽視されるようになっていた。私が所属していた史料部歴史資料室などは「何をしているのか分からない」と県の役人には言われ、最も生産性がない部門とみなされていた。

 

 史料部歴史資料室は県史編纂事業(『茨城県史料』『茨城県史』など)を引き継ぐ部署で、茨城県のみならず全国に遺る県関係の歴史史料の収集・整理・保存と資料集の刊行、雑誌「茨城県史研究」の刊行などを行っていたが、私は、県史編纂事業以後の研究成果をシンポジウム形式で紹介することで歴史館の研究機関的役割を県民にPRできるのではないかと考えた。同じ危機意識を持っていた、同じ部署の宮内教男さんや学芸部に移っていた飛田英世さんと一緒になって企画し、県派遣の役人が勤める館長や管理部長を説得して開催までこぎつけた。

(基調講演者市村高男さんの講演)

(会場風景。200名の参加者を得た)

(講演・報告終了後の討論で壇上に並ぶ報告者)

(会場からの質問)

 概要と評価については、シンポジウムが終了した後、私が、総括として歴史館の広報誌に載せた文章があるので、少し長くなるが、そのまま掲載しておきたい。

 

   歴史館まつり・歴史館シンポジウム『中世東国における内海世界』

 

  8月19日に,歴史館まつりの第1日目行事として,シンポジウム『中世東国における 内海世界-霞ヶ浦周辺の新しい歴史像を描く-』を実施し,約200名の茨城県内外の参 加者を得て,盛況のうちに終了することができました。

  本シンポジウムを企画した理由は,副題-霞ヶ浦周辺の新しい歴史像を描く-にありま すように,本県の南部に広大な面積を持つ霞ヶ浦やその周辺について,中世という時代に はどのような特徴があったのか,とくに現在とは異なって「内海」であり,流通・交通の 要地であった霞ヶ浦という視点から,新たな歴史像を描いてみたい,ということでした。

  これは,現在の霞ヶ浦の抱えている様々な問題,たとえば水質汚濁や,一昨年の鯉ヘルペ スの流行などにみる環境悪化に対し,歴史的に霞ヶ浦問題を検討し,その再生の一助にし たいという,歴史学からの提言も意図していました。

  基調講演他,4本の報告は次の通りです。 

 

 基調講演「内海論からみた中世の東国」( 高 知 大学教授市村高男氏) 

 報告①「古河公方領国における流通-馬・船・商人―」( 当 館 首 席 研 究 員内山俊

 身) 

 報告②「中世霞ヶ浦をめぐる宗教世界―律宗の布教活動を中心に-」( 福岡大学助教

 授 桃崎祐輔氏)

 報告③「常陸・下総の武士勢力と交流-金砂合戦の評価をめぐって-」( 茨 城大学

 教授 高橋 修氏)

 報告④「発掘された中世城館からみた常陸」( 国立歴史民俗博物館教授小野正敏

 氏) 

 

 市村基調講演では,中世において非農業生産の比重の高かった東京湾・霞ヶ浦周辺の特 質が指摘され,近世初頭の利根川東遷事業での交通体系の変化に伴い霞ヶ浦地域の豊かな 発展基盤が失われた事情,さらに以上をふまえ,霞ヶ浦の再生への歴史学からの提言がな されました。 

 内山報告では,東京湾と霞ヶ浦の水運をつなぐ位置にあった戦国時代の古河公方領国の 特質が,そこで活動した商人・交通業者の存在から指摘され,中世霞ヶ浦の位置が東国全 体の中で位置づけられました。 

 桃崎報告では,寺院史・仏像・考古資料から,忍性による鎌倉時代後半の旧仏教律宗の 東国への布教が,首都鎌倉に先立って,つくば市小田の三村山極楽寺や霞ヶ浦周辺でなさ れていた事実が指摘され,中世霞ヶ浦のもっていた先進性が高く評価されました。

 高橋報告では,平安時代末期に佐竹氏が霞ヶ浦に進出していた理由が,奥州藤原氏の京 都への貢納ルートや,そこを基盤とする上総氏・千葉氏との競合から説明され,源頼朝が 佐竹氏を討った金砂合戦が,その後の奥州合戦の前哨戦で,特異な合戦であると,霞ヶ浦 世界を視野に入れて評価されました。 

 小野報告では,中世考古学の成果から,東国武家の館空間の在地指向と都指向の2モデ ルが示され,霞ヶ浦に近いつくば市の小田城や小泉館の発掘成果から,この地域が強い都 指向をもっており,東国の他の地域にはないその特異性が指摘されました。 

 

 その後,参加者からの質問をもとに,テーマを統合するパネルディスカッションが行な われ,講演・報告内容の深化とその関連性の討議が行われました。 このシンポジウムの内容は,平成19年8月に,茨城県立歴史館編集で『東国の内海世 界-中世の霞ヶ浦・利根川・筑波山-』( 高 志 書店)として刊行される予定です。


 テーマの発案者は同僚の飛田英世さんだった。飛田さんは自身の研究フィールドを霞ヶ浦周辺に置いていた人で、香取神宮文書に見える「海夫注文」の津などの研究をしていた。シンポジウム当日は茨城中世史研究の第一人者・常磐大学の糸賀茂男さんとともに討論のコーディネーターを務めてもらった。

 

 基調講演者の市村高男さん(高知大学教授)は、同じ茨城県出身の中世史研究者で、とくに戦国期東国の研究では膨大な研究業績があり、学会のリーダーの一人であった。当時学会では東国の内海論や水上交通論がが盛んに論議されており、市村さんの論はその中心を占めていた。研究会で知り合っており、是非にとお願いした。

 

 報告者の桃崎祐輔さん(福岡大学助教授)は、筑波大学出身の中世考古学研究者で、関東における律宗の展開を考古遺物から研究していた。私が歴史館に勤める前年に桃崎さんから依頼されて、飛田さんと共に土浦市立博物館主催のシンポジウムでご一緒させてもらっており、そのご縁で報告をお願いした。

 

 高橋修さん(茨城大学教授)は武士団研究の著名な研究者で、当時和歌山県博の研究員から茨城大学に赴任してきて間もない時期であった。私が参加していた糸賀茂男さんの月1回の研究会にも参加されており、そこで知り合って報告をお願いした。私が卒業した大学(立命館大学)の、それも同じ三浦圭一ゼミで学ばれた後輩であることを研究会で知った。

 

 小野正敏さん(国立歴史民俗博物館教授)は越前一乗谷の朝倉館研究など中世考古学・城館研究の第一人者で、当時千葉県佐倉の国立民俗博物館に勤められていた。茨城県つくば市の小田城の整備専門委員会の委員長もなされており、同じく委員を務めていた私は、そのご縁で報告をお願いした。
 

 シンポジウムは盛況で活発な討論が為された。その成果は、飛田さん、宮内さんなど報告者以外の関連研究論文も入れて翌年高志書院から『中世東国の内海世界ー霞ヶ浦・筑波山・利根川-』として発刊することができた。これによって所期の目的は達成できた。感無量であった。

(高志書院刊『中世東国の内海世界ー霞ヶ浦・筑波山・利根川ー』

 ただ、学術的な歴史館シンポジウムはその後継続しなかった。私が翌年に現場の高校へ戻された後、平成21年に、宮内さんの井田文書発見を契機にシンポジウム「中世常陸・両総地域の様相ー発見された井田文書ー」が開かれたが、宮内さん、飛田さんともその後現場の学校へ戻され、このような学術シンポは途絶え、その後十数年開催されていない。県の人事の方針で、業績如何に関わらず、学校出身の研究者は学校に戻すのがきまりだった。継続できる人的資源を県は自ら断っていたのである。その時痛感したのは、管理部役人の慣例主義と保身の醜悪さであり、上意に諄々と従う「飼い慣らされた家畜」の如き在り方であった。役所(歴史館管理部)とは、専門的技能を持たず、出世のみを志向する異常な集団であることをよくよく知った。