最初の方に書きましたが、都市古河を特徴付けているものはやはり港としての性格です。水海(古河市水海)と対になって関東の二大河川水系を連結する港であるが故に、古河は歴史上重要な位置を占めてきました。古代の蝦夷戦争(8・9世紀)においては、畿内の律令国家が陸奥への軍需物資輸送のため水海と共に着目した場であり、坂東独立を目指す平将門の乱(10世紀)でも将門の把握する港津の一つでした[内山2023](ブログ(その2))。古河公方が古河にやって来たのも都市古河の持つそのような経済的中心性がありましたが、では戦国期段階の港津の様子はどうだったでしょうか。

 

〈戦国期の古河の二つの港津〉

 前回まで見た公方成氏の移座に伴う新たな家臣居住区の設定、都市プランに基づく宿町の整備に伴い、それに対応すべく新たな港津が、それまでの茂平河岸に替わり整備されていったと思われます。

 

 戦国期には古河には二つの港が確認されます。一つは、宿町と家臣居住区(近世観音寺郭)との間の東西の大通り(近世片町の通り、佐野道)が渡良瀬川を向古河へ渡河する地点である「舟渡」(近世船渡河岸)であり、もう一つが、同じ通りが分岐し(佐野道)、渡良瀬川・思川の川俣である下宮へ渡河する地点の「悪戸」です。(図1)

(明治40年ごろの古河船渡河岸跡(『古河史蹟写真帖』より)

 

〈戦国期港津・舟渡について〉

 まず舟渡について見て行きたいと思います。

 港津「舟渡」の存在については、前に見たように『松陰私語』に、明応年間(1492 ~1501)初頭、公方足利成氏の下に出仕した新田岩松尚純が本拠上野金山城に帰還するに際して「舟渡」から「舟取乗」している事実が記されています。ここから、すでに舟渡が戦国期から港津として存在していたことが分かります。舟渡は、古河出仕の近隣領主の帰還に利用されていることからも当時古河最大の港津と見られます。

 また地理的位置から見ても、白壁町通り・厩町通り等の宿町と直結する存在であったと思われます(図1)

 

〈舟渡周辺の様相〉 

 港津舟渡周辺で重要なことは、中世東国では史料的所見の少ない「問」(とい)の存在が確認できることです。

 戦国時代末期の元亀4年(1573)、公方義氏が水海出身の商人的家臣小池晴実に、求めに応じて「古河本郷」を宛行った際、その打渡坪付け中に「とい(問)宿」なる地名が見えるのです(史料1、小池文書

 

 「問」とは港津の水陸物資を扱う業者のことで、船・馬間の荷継ぎを行うことを主たる業務とし、他に倉庫業や、交通業者の馬借(ばしゃく)・廻船人(船頭)・水主(かこ、水夫)の差配、商人・旅人への宿の提供などを兼ねることがあります。近世の河岸問屋に近いものです。

 

(史料1、古河宿代官岩堀・石川某等連署打ち渡し坪付、元亀4(1573))

(図1、商人小池晴実への宛行地(赤点線内、史料1の地名が水色字)。その中に「とい(問)宿、が見える。古河宿町(白壁町、仲之町、厩町)と港津・舟渡の間に存在)

 

 「古河本郷」とは、上の打渡し坪付けの小字から、船渡河岸から戦国期宿町にかけての一帯と見られますが(図1、赤点線のところ)[内山2007a]、ここは、近世初頭の土井利勝藩主期(1633~44)の古河城下町絵図(茨城県立歴史館蔵『宝地院様御代下総国葛飾郡古河図』)には「御馬屋」「船町屋敷」「蔵屋敷」などが記されており(下写真)、公方時代からの「問」と業務関連する馬借(=「御馬屋」)、廻船人・水主・港湾労働者(=「船町屋敷」)、倉敷(倉庫)(=「蔵屋敷」)など港湾関連諸集団・施設が集中して存在していた可能性が考えられるのです。このような場所に小池晴実は自ら求めて知行地を得たのでした。

 

(『宝地院様御代下総国葛飾郡古河図』。河港の船渡河岸の近くに、戦国時代からの系譜を引くと思われる「御馬屋」「蔵屋敷」「舟町屋敷」が描かれる)

(道路の左側が近世観音寺曲輪の北の端。道路は佐野道。このあたりに「問宿」があったと思われる)

(上の写真を反対側から撮ったもの。佐野道が舟渡と悪戸(渡)に分岐するところ。この道の南(左)に「問宿」があったと思われる)

(佐野道から分岐し船渡河岸に向かう道筋。両脇に船町屋敷(港湾労働者の住居?)があった。その東に蔵屋舗(港湾の倉庫?)があった)

(現在の船渡河岸跡)

(中世の馬借。『石山寺縁起絵巻』)

 

〈古河公方を支えた商人・小池氏〉

 問と業務関連する馬借に関することなのですが、古河本郷を宛行われた小池晴実の一族に「厩衆」を率いる小池弥右衛門なる人物がおり、弥右衛門は天正4年(1576)公方義氏からその長の「厩舎人(うまやとねり)」に任じられています(喜連川文書案)。この人物の実態が少し推測できるのです。

 

 中世史家の網野善彦氏は中世前期の院・摂関家等権門の厩馬実務を担当する「厩舎人」「厩寄人(うまやよりうど)」が交通業者・馬借集団と重複することを指摘していますが[網野1991]、これを容れれば、弥右衛門の実態は、「厩衆」(馬借衆)を率いて「御馬屋」付近に居住し、公方馬の管理・飼育のみならず、河港舟渡における物資駄送を担った馬借集団の頭目かとも想定されます。

(図2、古河公方下商人の活動地域、とくに小池氏の活動地(黄色))

 一方、同族の小池晴実は、上のように公方義氏から「問」の所在する舟渡周辺に知行地を得ていた上、義氏の奉行人筆頭芳春院周興の侍臣として、古河と渡良瀬・古利根川水系で繋がる武総の内海(東京湾)の重要港津、公方御料所の一つでもあった武州品川(東京都品川)の経営にも「代官代」として関わりを持っていました(図2、鑁阿寺文書)。当時の品川は西国からの廻船が東国に来航する時の窓口で、おそらく晴実は西国からの物資の入手にも当たっていたのだろうと思います。他に

 

 ここから晴実は、公方権力と結び付きつつ、港津舟渡において「問」や馬借など港湾関連諸集団全般を掌握・管理する「総合的問」(複数の問全体の頂点に立つ)[宇佐見1999]で、古河地方~旧利根川水系~武総の内海(東京湾)間の物流に深く関わった豪商であった可能性が考えられるのです[内山2007a]

 

 公方義氏の時期には、古河では港湾税の「古河舟役」(弘治4年「足利義氏条書写」)が徴収されていましたが、おそらく舟渡で船舶に課されたもので、実際には晴実が実務に当たっていたのではないかと推測されます。

 また晴実は、仕える芳春院周興が公方「政所」(古河府の財政担当)を掌っていたことから[稲垣1974]、その実力を背景に義氏政権下の財務・交通吏僚として公方財政の実質を担っていた可能性も考えられます[内山2007a]

 

 これらから、小池晴実が掌握した戦国期古河の港津舟渡の実態と晴実を介した公方権力と流通との関わりが垣間見えてきます。

 古河公方研究が本格化した時期、佐藤博信さんや市村高男さんによって古河公方権力の「交通・流通機能への依存性の強さ」が指摘されていましたが[市村1986][佐藤2000]、その具体的実態の一端が垣間見えるのです。

 

〈小池氏の本拠・水海と小池氏〉

(古河と水海の位置)

 なお最初の方で触れたように、小池氏の出身地の水海(古河市水海)は、古代まで遡る、古河と対となって両河川水系間を連結する重要港津(郡衙・郡津)で、関宿(千葉県野田市)が発展する戦国期以前までは常陸川水系最奥の水陸交通の要衝でした[内山1995]。南北朝末期には、古河へ入部した野田氏と同様、下野足利の簗田厨から鎌倉府府奉公衆簗田氏が入部し荘経営に当たっていた場所です。

 

 小池氏の屋敷地は城下町水海でも宿町地域(上宿)の街道沿いに位置しており(図3)、中世都市・水海の古くからの根本住人の一人で、室町期には両河川水系の交易活動で財を成した有徳人であったと見られます[内山1995]。晴実の公方権力への登用もその属性にあったと考えられます。

 その地理的位置からは、古河と水海に拠点を置いてい大河川水系の物流に深く関わったことが想定され、古河地域の経済的中心性を象徴する豪商と言えるかと思います。まさに関東の将軍=公方権力を経済的に体現する存在であったわけです。参考までに水海城下町復元図を載せておきます(図3)

(図3、戦国期水海の様相)

 

 以上、戦国期古河の港津である舟渡とその周辺の様相、そこに関わる商人小池氏の存在と活動の実態・範囲、さらに公方権力で重要な経済的位置を占めたことを述べて来ました。

次回はもう一つの港津である悪戸について述べてみたいと思います。

 

(続く)