ちょっと前のブログに、霊的なものが「境界の場」に現れたという若い時の体験を書いたが(ブログ「怪異?実家の不思議な話」)、ただ本当のところは分からない。自分の思い過ごしかも知れないのである。

 でも、歳を取って70を過ぎ、人生を振り返ることが多くなると、いったい自分はどこから来てどこへ行くのだろうか、と思うことがある。親を見送り、老齢となって、つぎは自分の番だと思うと、しきりにそういうことが頭をよぎってくる。

 

〈「境界」と儀礼〉

 前にも、穂高連峰の登山口の横尾で梓川を渡るとき、いつも「異界」や「あの世」に入って行く心持ちになると書いたが(ブログ「山の不思議」)、川向うに浮かんできたのはすでに亡くなった父母など身内の姿だった。

 私にとって、梓川は「三途の川」なのである。

(梓川の前で息子と。向う側には穂高連峰。境界の川の向うは異界で、先祖の霊がいるように感じた)

(横尾大橋、境界の橋を越えれば異界の雰囲気)

 

 子供時代のお葬式、とくに出棺するときにはお金を撒いた。おひねりにして見送りに来た人たちに撒くのである。それを期待してさほど縁のある家でもないのに、その場に立っていたこともある。悲しい場面で「お金」が撒くことを不思議には思ったが、妙に違和感はなかった。

 

〈境界祭祀〉

 民俗学の事例では、「境界祭祀」といって、様々な「境界」で儀礼をおこなう。魂があの世に行くお葬式もそうだが、この世にやってくる出産儀礼、健康な成長を願う幼少期の七五三、大人になる成人式(元服)、また正月行事などの年中行事も、同様の時間軸での境界儀礼(通過儀礼)である。また平面空間にも見られ、「道切り」「辻切り」と言って村の境界で悪霊を追い出す行事や、家の境界である、屋敷の北西の隅に氏神様を祀る風習も広く見られてきた。かつては人間は様々な「境界」を意識し、儀礼をおこなうことで精神の安定を得てきたのである。

(天田郡三和町大原の産屋と境界の川)

(大原の境界の川。橋が架かっている。ネット写真)

(大原の産屋、ネット写真)

(産屋の内部。土間になっている、ネット写真)

 

〈あの世から魂がやってくる〉

 出産儀礼ではつぎのような古い事例がある。京都府天田郡三和町大原の例だが、出産が「血の穢れ」を伴うことから、村外れの、川を挟んだ向う側に土間状の「産屋」なるものを作り、その土間で火を起こして産婦が自炊し、出産まで生活するのである(高取正男「民家に残る日本人の信心」同氏著作集4)。また産屋は、生理の間女性が籠る場にも利用されていた(『南方海島志』)。

 しかし出産は、魂があの世からこの世へ「境界」を越えてやってくる出来事でもあり、それだから産屋は村の境界に作られ、あの世との「境界」でもある川の向うに建てられたのである。大原の例に限らず、同様の風習は近世中期の伊豆七島でも見られ(『南方海島志』)、全国的な風習であったようである。

(古河市小堤の小堤城館の北西にある稲荷社。氏神様)

(小堤城館の取り巻く土塁。戦国時代、この向う側に氏神様を祀る稲荷社がある)

 

〈先祖の霊の居るところ・戌亥の隅〉

 家の北西の隅に氏神を祀る風習は北関東から東北地方に見られる。北西は「戌亥」と言って、先祖がいて「福」を持ってやってくる方角と考えられ、その境界の「戌亥の隅」に氏神を祀るのである(直江廣治「屋敷神の性格」)。しかしこの方角は「両義性」と言って、相反する性格もあった。北西から吹く風は「タマカゼ」と呼ばれてある種の怖れをもって見られ、また先祖の霊の居る方角ということから、死者の赴く黄泉(よみ)の国の方向、霊魂の帰りゆく方向という畏怖の観念も持たれていた(柳田国男『風位考』)

(埼玉県蓮田市新井堀之内遺跡出土の大量の銭、10~20万枚。これは容器に入っている、ネット写真)

 ときどき新聞のトピックに、工事中などに「埋蔵金がで出た」「戦国武将のお宝発見」などと、数千から多い場合は数十万枚もの膨大な中世の銭が発見され、「大判小判がざっくざく」のごとく喧伝されることがある。この手の話は、研究者も含めて多くの人が「将来に備えて蓄えた財産」「戦争で隠し置いたもの」と考えられてる。しかしすべてがそうであろうか。

 発見事例を調べてみると、容器に入っている例もあるが、裸のまま埋められている例も多い。またその場合には、発見場所も家屋など安全な場所ではない。将来に備えての財産ならば、今の金庫のように、容器に入れ、家の床下などに埋めるであろう。隠し埋蔵銭としても、当然容器を伴うはずである。

 

(下妻市大木の銭出土地点。家の門の左側の×のところが出土した場所)

(ご主人に場所を指さしてもらった。塀の工事中に出土した)

(『一遍聖絵』の常陸国の銭出土の場面。館の家の手前の堀のところで掘り出されている。右上の所)

(掘り出している場面を拡大したもの。家の堀の中から出ている)

 

 茨城県下妻市大木の事例は、室町時代の約6000枚(60貫文)の銭が、出土したその家の門の脇で裸の状態で見つかった(上の図・写真)。鎌倉時代末期に描かれた『一遍聖絵』(巻第五第四段)にある「常陸国の者」が家の堀で銭50貫文を掘り出した絵に極めてよく似ている(拙稿「下妻市大木出土の中世一括埋納銭」『下妻市ふるさと博物館研究紀要』1号)。私が調べた中には、このような家の境界で見つかる事例が他にいくつもあった。また、古河市小堤の小堤城館の場合は、約4000枚(40貫文)の南北朝初期の銭が、氏神を祀る祠の北西の延長線上で、裸の状態で見つかった(下の図・写真。拙稿「小堤城館と出土銭」『総和町史通史編』)。さきの民俗事例の「戌亥の隅」の境界祭祀のケースと関連する事例であるように思える。これらの事例は、明らかに家や城館の「境界」からの出土なのである。

 

古河市小堤城館の銭。全部で約4000枚(4貫文、写真はその一部)

(氏神・稲荷社の位置と、銭出土地点。城館の北西の方角に位置する)

 

〈産屋の境界性〉

 ほかに茨城県新治村田宮の例も興味深い。これは村はずれの「辻屋敷」というところのすぐそばで見つかった。「村はずれ」「辻」ともに境界の場である。

 

 さらに出土状態が他に例を見ないものである。中世の出土銭は多くが上から穴を掘って埋めるものだが、下の図に示したように、この場合は竪穴住居のような建物の床面にじかに「置いた状態」で見つかった。さらにその銭は「緡し銭」(銭の穴に緡し紐を通したもの)を、縦二本をつなげ、横置きに何段にも切妻状に重ねた状態で出土した。さらに土間には河原石で囲まれた炉があり、その脇に直に置かれていたという。この場合の銭は何らかの儀礼に関わる道具であり、それは土間や炉と関係があると見られる。このような状態は、先に見た京都府天田郡三和町大原の「産屋」の例と、土間や自炊という点で共通点があるのである。あの世から魂が下りてくるときの出産儀礼用の道具(依り代)という見方を促してくれるものなのである(拙稿「埋められなかった中世一括埋納銭」『茨城史林』22号)

 

(新治村田宮の銭の出土状況・模式図。上は断面図で、石囲炉の脇に置かれていた)

 

〈あの世とこの世の境にはお金が必要!〉

 私たちが使うお金(銭)には、交換財としての価値(売り買い)や財産としての価値(貯金など)があり、富の価値尺度(貧富の差)の基準にもなっている。それは、銭が埋められた中世の社会においても同様であったが、別に、中世人にとっては、銭に寄せる特別の「心性」ともいうものがあった。金属でできた銭は朽ち果てない永遠なるモノであり、また身分制社会にあって、身分を超えてどのような人々の手にも渡っていくモノである。それは、さまざまな「境界」を融通無碍に移動してゆく摩訶不思議なモノ、無縁なモノ、神性を帯びたモノとも感じられたはずである。このようなモノが境界祭祀に用いられていくのは、当然のことであった。私の紹介した事例はそのような中世人の心性を念頭に置けば、よく理解できるものなのである。

(『春日権現験記絵』、鬼が屋根の上から病の男を覗いている)

 

 私たちが今感じられる「境界」の場は、あの世へ行く葬式の斎場ぐらいのものである。東日本大震災やコロナ流行はあったが、そのような天変地異・疫病や飢饉・戦争などの災厄は中世人にとっては日常のことであり、「境界」は、人の死に際してだけではなく、出産においても、また守るべき屋敷の外側にも、方角にも存在した。その回路を通して災厄はいつでも忍び寄ってきたのである。銭を「境界」で祀り、自分自身や家族を守ることは、中世人がまず第一にすべきことだったのである。戦乱で隠し置いた「埋蔵銭」とか貯金のような「備蓄銭」とかの解釈は、豊かさに飽和した現代人の大きな誤解なのである。