(古河公方の成立、その5)
4 京都と相似する古河地方の位置
(1)将門の東国首都構想
(平将門座像(坂東市岩井の国王神社蔵))
坂東を席巻した将門が、天慶2年(939)12月に上野国府で「新皇」として即位し、同時に坂東各国に国司を任命して坂東独立国家を志向したことは、『将門記』にあまりにも有名である。源頼朝の鎌倉幕府草創の先駆けとの評価のみならず、「日本国」における「東国」の独立性の嚆矢としてしばしば取り上げられる。ここでは「日本国都」と対比させた「東都」の物流掌握の観点から見てみたい。
独立国家の首都構想については『将門記』にはつぎのように記される。
〔史料5〕楊守敬旧蔵本『将門記』天慶二年十二月十九日 〔 〕:扶桑略記
且諸国受領点定、且成可建王城儀、□□其記文云、王城建下総国之可亭南〔下総国猿嶋郡石井郷亭南可為都朝〕、兼礒津橋号為京山﨑、以相馬郡大井津号為京大津
将門は、王城(都)建設の地を、本拠地の一つ猿嶋郡石井営所付近の「下総国之亭南」(石井郷=坂東市岩井)とした上で、注目すべきは「京山﨑」「京大津」に擬えて「相馬郡大井津」と「磯津橋」を挙げている点である(下線部)。
京の山崎(京都府乙訓郡大山崎町)は淀川と官道の山陽道の交差する水陸交通の要衝で、西・南日本からの平安京への物資荷揚げ地点であり、同じく大津(滋賀県大津市)は琵琶湖水運と官道の東海道・東山道の交わる水陸交通の要衝で、やはり東・北日本からの平安京への物資荷揚げ地点である(図1)。二地点は、いわば首都圏における列島規模での広域経済圏の掌握地点であり、経済的中心性の上に立つ「日本国都」(平安京)の物流上の関門の位置を意味している。したがって『将門記』の東国首都構想は、「日本国都」に対する「東都」の物流掌握地点の意味で大井津・礒津橋の両地を挙げているのである。
(図1、経済の中心地京都。将門の平安時代には、京都は天皇・貴族の都であり、その生活物資は、内海と河川・陸上交通を通して全国から集まった)
(図2、将門の目指した坂東国家。石井(岩井)を都とし、関東の2つの内海・二大河川交通・陸上交通を意識して都を作ろうとした)
この視点に立てば、「相馬郡の大井津」は『和名類聚抄』下総国相馬郡大井郷(千葉県旧沼南町大井ヵ)の津が適当となる。
ここは常陸川水系・常総の内海の一部である手賀沼と平安期官道・東海道の接点に位置し、陸奥からの物流の重要な水陸交点である(図2)。一方「磯津橋」は、従来の多くの研究では猿嶋郡としながら位置不明とされてきたが、すでに赤城宗徳氏は「釈迦沼(日下部沼・古河市釈迦)に架かっていた橋であろう」と、水海・日下部沼の北縁の釈迦の地に比定している。筆者も同意見で、水海の北隣りに「磯部」の地名があり、中世では奥大道が通過していて「礒津橋」の地名にも相応しい。水海同様、常陸川水系最奥にあって武総の内海・旧利根川水系に隣接する水陸交通の要衝であり、やはり陸奥からの物流の水陸交点となる(図2)。先に検討したように、すでに「女論」以後将門は二大河川水系を水海と古河で掌握しており、王城(都)を常陸川水系の本拠「石井郷」(坂東市岩井)に設定した場合、両地(大井津・礒津橋)の選択は、坂東国家創出上、地理的・経済的に極めて妥当な行為なのである。
このように考えると、将門の首都構想は、「日本国」の物流掌握を前提とした首都認識を「東国」の実際の交通形態に合わせんとしたものと見なすことができる。
将門の乱の場合、古河地方そのものは首都ではなかったが、すでに将門が古河と水海を掌握していたことを前提にして、首都圏の一端は水海に及んでいた。古河地方が流通構造上、東国の中でも首都(=東都)あるいは首都圏となり得る場であったことがこの事実から窺える。「日本国」に対峙して「東国」の首都構想を行う場合、畿内・京都と相似形を取り得る場所の一つが何よりも古河地方であったのである。将門の東国独立国家構想・首都構想は古河地方の地政学的特質がなければ生まれなかったものと評価できる。
ではつぎに同じ「日本国都」と「東都」の相似性を、戦国末期の事例ではあるが、古河公方の経済的特質に立ち帰って見てみよう。
(続く)


