(古河公方の成立、その6)

 

(2)古河公方権力の経済的特質と京都との相似性

 

 まず戦国期の古河公方権力の経済的特質について、水海(茨城県古河市)出身の商人・流通業者小池氏の例を通して示してみたい(図1)

(図1、水海の位置。常陸川水系最奥の港津、町場)

(図2、室町・戦国期の水海の様相。北の町水海が町場であり、小池氏はそこの出身)

 

 簗田氏庶流の戦国期城下町・水海のうちでも商職人(商人と手工業者)居住区の「町水海」の住人の一人であった小池氏(五郎右衛門晴実、図2)は、永禄から天正年間(1561~82)に活動した人物で、公方足利義氏から古河本郷に給分を与えられていた(後掲史料7)。小池氏は、水海だけではなく古河にも拠点を持って義氏の奉行人筆頭の芳春院周興に仕える侍であった(稲垣1974、内山2019)。水海は前のブログまで見てきたように、古代には猿嶋郡家であり、安倍墨縄や平将門が関与して、東国内部や陸奥との物流に極めて重要な位置を占めた場である。

 

 中世段階の水海は、南北朝末期に、鎌倉府による下河辺庄再建の過程で府奉公衆の一人簗田氏が下野足利の簗田御厨から移住してきた地で、常陸川水系における関宿の都市的発展以前の拠点的港湾都市である。その都市的性格は、古代の前史を継承して簗田氏移住以前から確認でき(鎌倉期に遡る諸宗派古寺院の所在、南北朝期を中心とする板碑の大量出土)、早くより常陸川・常総の内海だけでなく、旧利根川水系・武総の内海への交通・物流とも密接に関わる港湾・交易都市であった(内山2019)。小池氏の祖はその町水海の都市的性格から、両水系の物流に深く関与した存在で、その経済活動で富を蓄積した「有徳人」の一人と推測される。

 

 古河公方権力とこの小池氏との関係はどうであったろうか。

 

 小池晴実の公方権力内部での立場は、最後の公方・足利義氏政権中枢にいた奉行人筆頭・芳春院周興の下「物心両面にわたるシンクタンク」(佐藤2000)の一人とも評され、古河府の「政所」の責任者でもあった周興の下、その吏員の一人とも目されている(稲垣1974)。鑁阿寺文書の内容からは、後北条氏家臣石巻康敬と足利鑁阿寺間の連絡交渉役(「鑁阿寺文書」総四二一)や公方文書の送達役を担い(「鑁阿寺文書」に多数)、武蔵鉢形城主の北条氏邦への鑁阿寺の礼物を届ける役割を担っていた(「鑁阿寺文書」総三八五、図6)。芳春院周興の配下にあったと言っても、古河足利家内では一揆・足軽勢と同等に扱われており(「下総旧事三」総・小池文書八)、上のような運輸や通信業務に関わる専門職能を有していたが故に、公方権力に登用された存在と見なせる。物流に関与する城下町水海(町水海)での「商職人」としての存在形態を反映したものであった。

 

 小池氏に関してつぎのような史料がある。

 

 〔史料7〕

   (前略)

  一、御雑色・御厩者、御判被下模様之事、

   (中略)

  袖之御判

   御厩舎人

      小池弥右衛門

     天正四年十月十三日 

 

 これは、天正4年(1576)、公方義氏に男子が誕生した際の祝儀の内容を記録したもので、小池氏に関わる部分である(「喜連川文書案一」総三〇二)。この時公方家内部では祝儀として受領や官途が家臣たちに下されたが、小池一族と推測される小池弥右衛門には、義氏の袖判物で官途「御厩舎人」の下賜があった(下線部)。「厩舎人」とは公方家の家産管理を担った役職の一つで(佐藤1989b)、公方使用馬を飼育・管理する「御厩衆」の長のことである。

(図3、中世の馬借、湊からの物資を運んでいる。「石山寺縁起絵巻」)

 

 小池氏の専門職能に関わって重要なことは、「厩舎人」「厩寄人」についての網野善彦氏のつぎの指摘である。網野氏は、享徳2年(1453)2月の院御厩案主基景申状などの畿内の実例を挙げ、「天皇家・院・摂関家の属した厩寄人は商業活動や関所料率分の徴収・免除を受けており、これは「馬借」の活動そのものといって間違いない」、「厩舎人・居飼と馬借が完全に重ならないとしても、その間に不可分の関係があったことは間違いない」と、天皇家以下諸権門の厩吏員である厩舎人・厩寄人(厩衆)と交通業者「馬借」(図3)の重複する関係を指摘している(網野1991)

 

 右に見た、運輸・通信を担う小池晴実の実体からすれば一族の弥右衛門は、公方厩の管理だけでなく、畿内の例同様、古河周辺の地で陸上輸送を担っていた馬借頭目であった可能性は極めて高いのである。その点に関連して、都市古河における小池晴実の存在形態は注目される。

 

〔史料8〕「下総旧事 三」総・小池文書五

 

 小池五郎左衞門給古河本郷内

     (中略)

    慶正寺             とい宿

  一 三百五十文 同       一 六百五十文 同

   衣(といヵ)南         同所南

  一 六百五十文 同       一 六百文   同

     (中略)

  元亀四癸酉出之    岩堀(花押影)

   三月廿日      石川(花押影)

 

 この史料は小池晴実の求めに応じ、元亀4年(1573)戦功の恩賞として、公方義氏の意を受けた古河宿代官の岩堀氏・石川氏が、「古河本郷」(図4)内の田畠を打ち渡したものである。注目すべきはこのうちに「とい(問)宿」が存在したことである(下線部)。「問宿」とは港津の荷継業者「問」(とい)が存在する宿の意味であり、論証は省くが、その場は古河最大の港津・船渡と接する古河宿町部分に存在したことが想定できる(図5)

 

(図4、戦国期の古河の様相。渡良瀬川に面して港と港湾施設が並び、馬借の集住地も宿町の厩町近辺にあった)


(図5、港湾関係諸施設想定図)

 またその近辺には、近世初頭の城下絵図では「船町屋敷」(廻送人・船頭の居住区、図5、以下同じ)や「蔵屋敷」(物資保管倉庫・倉敷)・「御馬屋」(大名土井家の馬屋ヵ)が描かれている(茨城県立歴史館所蔵『宝池院様御代下総国葛飾郡古河図』)。通り名(厩町通り)としても遺存しているこの「御馬屋」は公方時代の公方「御厩」に由来することは間違いなく、厩舎人(馬借頭目)小池弥右衛門に率いられた馬借集団の居住地がこの近辺であった可能性が高い。一族の長・小池晴実は自ら欲して、古河においてこのような流通関連諸集団の一大集住地を掌握したことになる。

 荷継ぎ業を基本としつつ廻船人・馬借など流通関連諸集団から成るこのような形態は、宇佐見隆之氏が戦国期の越前敦賀や伊勢大湊の「問」を検討して、総合的流通管理機関=「総合的問」(宇佐見1999)としたそのものと類似しており、ここより、小池晴実は、一族の馬借頭目・弥右衛門による荷継ぎ業務・輸送を基本としつつ、古河最大の港津・船渡の「総合的問」として、公方権力下、渡良瀬川水系の流通機能を掌握した存在であった可能性が垣間見えてくる。

 また晴実は、武総の内海の最大の港津で西国との交易の窓口・御料所品川(東京都)にも、古河公方の「代官(芳春院周興)代」として関与しており(「鑁阿寺文書」、総二三七、図6)、公方義氏政権登用の前提に、すでに渡良瀬川(旧利根川)と一体的関係にある武総の内海での広域経済圏と深く結びつく経済活動を行っていた可能性が考えられる。また古河船渡の港津機能を掌握するとともに、出身地水海にも当然拠点を有していたはずであり、馬借頭目を配下に置く点からは、少なくとも古河―水海間の陸路での両水系物流関与はその基本業務の一つであったことは間違いない。

 

(図6、公方商人小池氏の活動域)

 

 このように小池晴実は関東の二大河川交通の接点という古河地方の地域性を典型的に体現する商人・流通業者であったが、さらに検討すべきは公方領国内の他の商人たちとの差異から見えてくる義氏政権内部での位置と役割である。

 

 小池氏は、商人のタイプとしては、御料所・品川の「代官代」の立場が示す通り、古河公方権力と癒着して領内・領外に広い営業活動を展開する政商的存在であったと見られる。しかし、古河福田氏も前述のように公方から「京座司」に任じられ、領外の下総布川(茨城県利根町)での交易活動が知られるように同質の存在であった。ただ注目すべきは官途状等の公方義氏発給文書の署判形式で、古河商人福田氏や馬借頭目小池弥右衛門宛ての文書は軽意の「袖判」であるのに対し、晴実へは厚意の「奥日下判」であり(「小池文書」総二)、また官途・受領名のみの福田・弥右衛門に比較して、偏諱「晴」(公方晴氏よりヵ)まで拝領する存在であったことである。この署判形式に見る違いは、晴実が義氏政権中枢に仕え、公方と極めて近しい立場にあったことの反映であるが、それと共に政権内部では、福田氏や小池弥右衛門のような商人・交通業者の上に立ち(商人司)、彼らを管理する財務・交通吏僚であったことも意味するのではないかと推測される。

 

 とくに財務吏僚の面に関しては、御料所品川の「代官代」の基本任務が、品川住人・百姓からの地子銭・年貢の徴収と想定されることの他に、前述のように「政所」責任者・芳春院周興の下その吏員の一人と見なせることが重要である。

 「政所」と言えば、室町幕府において「政所」の職務の一つが財政担当であったことは周知の通りであり、管轄下の倉奉行の管理・出納下に在った公方御倉において、委託を受けた京都市中の土倉が実質的な出納業務に当たっていたことはよく知られた事実である。小池晴実が流通・運輸に関わる商人であったことからは、古河公方「政所」も実態は公方財政担当であり、商人小池氏自身が京都の土倉同様に、古河公方権力内部で財政の管理・出納を担当し、財務吏寮として権力内部に重きを置いていたとも想定できるのである。佐藤博信氏によって義氏政権下の「物心両面にわたるシンクタンク」の一人と評されることの、「物」の側面そのものである。

 

 以上、戦国末期の古河公方権力の経済的側面の一端について、義氏政権に仕えた政商で財務・交通吏僚と見られる小池晴実の存在形態を通して見てきた。

 古河公方権力は、小池氏のような古河地方の水運・陸運を統括し、領内はもとより二大河川水系さらに武総の内海にまで活動を広げる有力商人・流通業者を権力内部に組み込み経済政策を遂行してきたのである。古河の地政学的特質に立脚し、関東の東西の地域経済圏や広域経済圏を掌握しつつ権力を維持せんとした経済的特質が何よりも窺えるのである。

 

 また併せて指摘できることは、古河公方の財政構造が、一面では室町幕府のそれに相通ずることである。室町幕府の財政構造は都市京都の商業・流通活動に対する課税、とりわけ土倉役に大きく依存する構造をとっていたが、古河公方権力も財政的には商業や流通支配に相当の重点を置いていた権力ではなかったか、と想定される。その点は、すでに市村高男氏(市村1986)や佐藤博信氏(佐藤2000)も指摘していたが、室町幕府との相似性は、公方「政所」吏員に小池晴実のような水陸物流に関与する政商が存在した事実が象徴的に物語る。

 

 また財政基盤に止まらず、流通構造のあり方での京都との相似性も挙げねばならない。その場合、物流が水上交通に大きく依存していた前近代社会にあっては、列島規模で広域経済圏を成立せしめた海上・河川交通の全体構造が明らかにされなければならない。この点で、中世社会における列島全体の「航海圏」の構造を指摘した市村高男氏の研究が参考となる(市村2006、図7)

 

(図7、中世日本の航海圏と内海、市村2006)

 

 市村氏は、各「航海圏」が内海を交差地域にして結びついていたとして、列島全体での外洋・内海からなるセットを設定している。

 そのうち東国に関しては、すでに述べてきた関東の二つの内海・二大河川水系地域を、北海道・東北より那珂湊や銚子を経て「常総の内海」へ入る北太平洋からの外洋航海圏と、紀伊・伊勢より「武総の内海」の六浦(横浜市)・品川へ入る東太平洋の外洋航海圏を結びつける「関東の物流の回廊」と位置づけた。この観点からすれば、「日本国都」の京都は、列島各地の外洋航海圏(瀬戸内海、西日本・北日本・東太平洋航海圏)とそれを結ぶ内海(大阪湾・若狭湾・伊勢湾)―河川(淀川)・湖沼(琵琶湖)―物資陸揚げの各港湾都市(淀・鳥羽、坂本・大津など)という、列島全体をめぐる物流の大回廊の中心に位置し(図7)、全国へ四通する広域経済圏を扼する場と捉えることができる。

 先の『将門記』首都構想の記述―京山崎・京大津―もまさにこの実態を反映したものであったことが理解できるが、『将門記』同様、戦国期における「東都」首都圏の物流要衝地を挙げてみれば、「日本国都」首都圏の淀・鳥羽、大津・坂本などの諸都市に相当するのが、古河・栗橋、水海・関宿であったことは自ずと理解できるところである(図1)。そして畿内のそれら港湾都市には、流通活動を展開する問・馬借が集住し、京都への物流を担っていたことはよく知られている事実であり、「東都」においても戦国末期の例ではあるが、古河の港津・船渡周辺における小池氏一族の「問」「馬借」の存在が確認できた。おそらく水海や関宿・栗橋の港津部にも同様の「問」「馬借」が多数存在し、古河福田氏、関宿会田氏、栗橋石塚氏(内山2007b)などの商人の経営実態も、バリエーションはあれ、それぞれの城下で「問」や「馬借」と深く結びついたものであったであろう。彼らが二つの経済圏を跨いで活発な経済活動を行い、公方や公方重臣の被官となって公方権力を下支えしていたことはすでに述べたとおりである。

(図8、申叔舟『海東諸国紀』付図)

 

 以上、戦国末期の例ではあるが、古河公方権力の経済的特質が京都・室町幕府のそれに相通じ、流通構造の面でも、古河公方の首都圏が京都のそれに相似することを指摘した。将門の乱の時期の首都構想の存在や、右の事例が公方権力最末期のものであることを念頭に置けば、この様態―経済的中心性に裏付けられた首都性―は、成氏が移座した享徳の乱の時期にも存在していたことは間違いないであろう。それ故での古河移座であったのである。まさに古河は、冒頭で触れた申叔舟の『海東諸国紀』にいう、「日本国都」に対する「東都」に相応しい社会的実態を有していたと評価できるのである(図8)

 

(続く)