(古河公方の成立、その7)

 

   おわりに

 

 享徳の乱での鎌倉公方成氏の古河移座の理由については、「はじめに」で触れたように、近年の政治史研究では乱当初の諸々の政治的条件(=成氏の誤算)が加わって古河が選択されたような理解がなされているが(久保2007など)、政治史という「結果としての航路」の下には、このような経済構造の「大きな潮流を持つ大海」が横たわっていたと見るべきである。 

 

 公方成氏が東国国家の首長として古河を選択したのは、東国物流の要・古河地方の歴史的前提から見ても必然性が存在していた。「日本国都」の京都と相似する「東都」古河の地政学的特徴は、東国の自然発生的交通形態を基礎とする中世以前の社会において一貫したものであった。鎮守副将軍安倍墨縄や平将門をこの地が生んだ所以である。

(図1、中世関東の二大水系と鎌倉の位置)

 

 以上、東国における古河の首都性を述べてきたが、その点で最後に問題とすべきは何よりも鎌倉の位置付けと古河地方との関係である。

 

 結論のみ述べれば、鎌倉は東国武家政権の首都と言っても、地域構造的には相模湾や武総の内海とその沿岸地域を基盤とするもので(図1、市村1992)、経済的にも古河地方のような、二つの内海を連結し陸奥との物流も集約する場という、関東全体での中心性は認め難い。幕府のあった鎌倉期においても関東各地への物資の集散的性格はなく、鎌倉は西からの物資の「ブラックホール」と評価される(河野1995)。

 それ故、南北朝末期の鎌倉府が苦慮した小山政義の乱の原因の一つが御料所・下河辺荘等の帰属問題であったことから分かるように(頼印大僧正行状絵詞)、東国政権としての安定的存続のためには、伝統的にこの地方(=「繋ぎの地域」)の掌握が不可欠の条件であった(市村2007)。換言すれば、東国の首都・鎌倉にとって、東国支配上アキレス腱となる場の一つが古河地方であったのであり、その点で鎌倉公方成氏の古河移座とは、経済的に東国国家および「東都」の安定的維持を目指した行為であったとも言えるのである。

 

(地図2、関東の南北対立と列島社会の地域性)

 

 また鎌倉は、政治的には西国との結び付きを前提とする首都であった。

 東国武家政権・鎌倉幕府が京都の公家政権との補完的関係にあったことは、権門体制論に代表されるように研究史上縷々指摘されるところであり、後の鎌倉府も形態的には京都室町幕府の東国行政機関であった。

 享徳の乱勃発で鎌倉を離れた公方成氏が、その後関東管領上杉氏を支持する室町幕府とも対立したことから、京都の改元には従わず「享徳」年号を使用し続けたことはよく知られているが、西国の政権に対立し、純然たる東国国家たらんとするときに、古河地方は王権の所在地として選択され、強く首都性を帯びる場となった。将門が京都の王朝国家に対して反乱を起こし、猿嶋郡に王都を形成せんとしたときと全く同じ歴史的事象であったのである。対比的表現を用いれば、鎌倉は「日本国」に内在する「東都」であり、古河は「日本国」に対峙するときの「東都」であった(図2)

 

〔注記〕 文中の「古」は『古河市史資料・中世編』、「総」は『総和町史資料編・原始・古代・中世』からの引用であることを示す。

 

 

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(了)