(古河公方の成立、その4)
(2)平将門の乱と古河地方
つぎに同様の視点から、やはり古代猿嶋郡を舞台の一つとした「平将門の乱」とその前提を検討してみる。
(平将門座像、坂東市岩井の国王神社蔵)
前回まで述べてきた古河市水海出身の安倍墨縄の物流に関与する性格は、東国のみならず陸奥鎮守府内での在り様として樋口知志氏によって検討されてきた(樋口2,004)。「三十八年戦争」の原因を蝦夷と律令国家の間の交易体制の軋轢から検討する樋口氏は、拙稿を踏まえて墨縄を「桃生・伊治両城を拠点とした新たな対蝦夷交易体制において積極的な役割を期待したもの」、「中央権門と蝦夷社会との間の交易の仲介者」というように、蝦夷社会~陸奥鎮守府~京間での「交易・輸送の介在者」という新しい一面を指摘した。
またその後の鎮守府と物流の関係については、熊谷公男氏が、「十世紀初頭の国政改革に伴う貢進制の改編の中で、陸奥国からの主要な貢進物として臨時交易御馬・臨時交易絹・砂金などが定められ、その時期、受領官的性格を有するようになった鎮守府将軍によって大半は調達されていた」と、やはり陸奥鎮守府が蝦夷社会~鎮守府・陸奥国府~京間の交易・貢進に一定の役割を果たしていた事実を明らかにした(熊谷1994)。
将門の乱において注目すべきことは、十世紀初頭、史料上東国軍事貴族の中で最初に鎮守府将軍に就いたと確認できる人物がまさに将門の父良持であったことである(熊谷同前、図1)。同じ猿嶋郡とその周辺に拠点をおいたと推測される人物(安倍墨縄・平良持)が、時期こそ異なれ、陸奥鎮守府に在って蝦夷社会~鎮守府~京間の貢進・交易上の介在者として存在していたと想定できるのである。このことは彼らの出身地の古河・水海など古代猿嶋郡が、蝦夷戦争の時とは逆のモノの流れで、陸奥から東国・京への物流において重要な地理的位置を占めていたことを示唆する。
(図1、「女論」の背景。平将門と叔父良兼との関係)
近年の「平将門の乱」研究では、鈴木哲雄氏・高橋修氏によって内海論や交通・物流の視点からの見直しが行われ、地域的には東国内部に止まらず、やはり陸奥との関連性も視野に入れられている(鈴木1994、高橋2010)。とくに高橋氏は、下総西部(猿嶋郡・豊田郡)の物流上での位置を念頭に置き、乱の発端となった「女論」について、「女婿」(将門妻=叔父良兼女子)の立場で叔父良兼から継承せんとした猿嶋・豊田両郡の権益問題が内実でなかったかとし、特に「関東の二大河川水系(旧利根川水系・常陸川水系)(図3)を結び、陸奥への人や物の流れを総括」する物流要衝の猿嶋郡の権益をめぐっての対立に、乱勃発の真の原因があったのではないか、との新しい視点を提示した。
筆者はそれを承けて、将門の乱の見直しを行ったが(内山2023)、論の前提の一つに、古代猿嶋郡域の範囲を、従来の通説の旧岩井市・猿島町・境町・旧三和町のみを令制猿嶋郡域とする見方に対し、「猿嶋郡人日下部」氏の所在した西側の旧古河市・旧総和町も入ることを挙げ、『将門記』(楊守敬旧蔵本)猿嶋郡関連の箇所(史料3)の読み替えを行った。典拠史料と結論は以下の通りである。
〔史料3〕楊守敬旧蔵本『将門記』承平七年八月
(前略)登時、将門労身病、妻子共隠宿於辛嶋郡葦津江辺、依有非常之疑妻子載船浮於広丈之江、将門帯山居陸閑奥之岸、経一両日之後、件敵以十八日各分散、之比以十九日敵介取辛嶋之道渡於上総国、其日将門婦乗船指寄於彼方之岸、于時彼敵等得注人約、尋取件船七八之艘之内所被虜領雑物資具三千余端、妻子共被討取也、即以廿日渡於上総処(後略)
(1) 承平七年(937)八月、本拠の一つ豊田郡鎌輪宿周辺の合戦で伯父平良兼に敗北した将門は、辛嶋(猿嶋)郡の「葦津江」→「広丈之江」→「陸閑(クカカ)奥之岸」と逃れる(史料3の赤字ゴシック、図2)。それらの地名は、これまで猿嶋郡と豊田郡の境に位置した飯沼の入り江に比定されてきたが、旧古河市・旧総和町も猿嶋郡に入るとした筆者の視点からは、①「葦津江」=長井戸沼(境町)、②「広丈之江」=郡家・水海(旧総和町)に接する常陸川部分、③「陸閑(クカカ)奥之岸」=古河の港津部、というように、猿嶋郡家の水海や古河の周辺地域に比定するのが適当であるとした。②(水海)と③(古河)は、既に述べた、関東の二大河川水系を短い陸路で結ぶ公的港津で、その地に将門は何らかの足がかりを有していたのである。

(図2、承平7年8月の将門の逃走ルート)
(2) この点から、「女論」の起こった延長九年(931)から良兼が古河・水海周辺の地に侵攻してきた承平七年(937)8月までは、将門はこれら二大河川水系物流の要地を掌握していたと考えられ、そして将門と叔父良兼との対立のきっかけとなった「女論」の内実は、東国の二つの内海・二大河川水系を結ぶ水陸交通・物流およびその拠点(古河・水海)の掌握問題であり、父良持が鎮守府将軍としてかつて保持していたその権限を、将門は無位・無官ゆえ継承できなかったために、「女婿」としての立場をもって叔父良兼に譲渡を要求したことにあったのではないか、とした。
(蝦夷~陸奥~関東~京間の北方世界の「富」の流れ、内山2023)
(3) 当時の陸奥鎮守府・陸奥国府を介する蝦夷社会~京間の交易・貢進体制において、将門は、猿嶋郡家水海に基盤を持つ安陪忠良を介して、陸奥や東国の両内海へ通ずる二大河川間の流通網を実力で掌握し、自らの持船を駆使してそれら物流に深く関与していたのではないか(下線部)、とした。
このように『将門記』猿嶋郡の箇所を読み替えることによって、高橋修氏が将門の乱の当初の原因を将門と叔父良兼の物流要衝猿嶋郡の権益をめぐる対立と指摘した、その具体相がより鮮明に見えてきたのである。そして、何よりもそのポイントとなる場が、この場合もやはり水海と古河の両地であった。蝦夷戦争において安倍墨縄の存在が意味したのと同様、古河地方が河川交通を介した東国物流の要であったことがここからも理解できるのである。
(図3、関東の二大河川水系)
ではつぎに、享徳の乱のとき古河が「東都」と認識されていた首都性の問題を、古河地方の地政学的視点、具体的には「日本国都」=京と相似形を示すという観点から、「新皇」将門の坂東独立国家での首都構想に触れ、また戦国末期の例ではあるが、古河公方権力の経済的特質を通して見てみたい。
(続く)



