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岡田光興の光覚への道

 このブログは、主に日本の思想家を中心として、私たちが求めて止まない「光の道」への示唆と教示を含む言葉や文章を紹介していくものです。それらが、私たちがこれからの激変する社会を生き抜く、大いなる「光の指標」となることを祈って止みません。
 

これは、幕末の国学者で、神道家の井上正鉄(井上正鐵)(いのうえ まさかね)寛政2年8月4日(1790年9月12日)~嘉永2年2月18日(1849年3月12日)の『遺訓集(一)』に収められている「岩戸開」の冒頭の一節です。
全文は次のようなものです。

『古しへの、天の岩戸を今ここに、伝えたまへる法の道、くらき闇路に入りぬれど、神の恵みぞありがたや、はやほどもなくしののめの、松に日出る御光り、
天照らします太神の、ちかひうれしき身なるのに、我とわが身のおもひ火に、胸のけむりのたへやらず、一ツ火ともすあわれさを、はやふり捨て太神の、神のまにまにまかせなん。」

「トホカミエミタメ」を、奉唱する「トホカミ神道」を提唱し、時の幕府から、異端邪説とされ、伊豆の三宅島に流されました。伯家神道も修め、また三宅島流罪中、「烏伝神道」も伝授されたとされています。

「十種の神宝の御法」、「息吹永世の法」について、次の道歌が『遺訓集(三)』にあります。

『身も安くこころも安くなきならば祓修行のたらぬとぞしれ』

『あしき事神のおしへに祓ひすて永世の息のかよふうれしさ』

☆参考『禊教教典井上正鐵神御文書』


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『そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちにみつ』


昨日のNHK歴史ヒストリアで放映された歌人、柳原白蓮の辞世の歌です。大正天皇の従姉妹の血脈を持ち、その動向は常に、世間の注目を集めました。(大正天皇の生母柳原二位局は父、伯爵柳原前光の妹)。


二度目の結婚は、九州の炭鉱王、伊藤伝衛門でしたが、孫文らの辛亥革命にも深く関与した、国士、宮崎とう天の息子で、東大左翼結社「新人会」の創立メンバーの宮崎龍介と逢瀬を重ねました。短歌と文芸サロンを主催し、「筑紫の女王」と称されました。


新聞社への投稿で、伊藤伝衛門との離縁を宣言。一代センセーションを起こしました。一時、大本にも匿われた事もありました。
その後、離縁が成立し、晴れて宮崎龍介と結婚しましたが、結核で倒れた龍介や子供を養うために、苦労を重ねました。


戦後、一人息子を戦争で失ったこともあり、平和運動にも積極的に参加しました。
また、歌誌「ことだま」を刊行し、日月神示の岡本天明先生とも親交がありました。天明先生の機関誌に、短歌を投稿し、その写真も残っています。



昭和42年2月22日に波乱に富んだ生涯を終えました。享年82歳でした。



この言葉は、吉田松陰の言葉です。
この言葉を、三島由紀夫は、昭和45年6月11日に、彼が育成していた、盾の会の会員を対象とした会で引用しています。
本年は、三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、盾の会同志と自刃して以来、11月25日に40年が経過します。
以下、月刊Will・12月号・持丸博・解題・三島由紀夫・最後の講話「われは忠義をなさん」より引用させて頂きます。
三島は、「功業」を次のように説明しています。
「功業とは、自分が大政治家として権力を握り、その力を背景にして自分の考えたことを実現していき、いずれは大勲位の勲章をもらい、うまくいくと国葬もしてもらえるような道です。」
それに対し、「忠義」を次のように説明しています。
「しかし、忠義というものは、野垂れ死にをする道です。そして、何ら効果がないかもしれず、人に笑われるかもしれず、それこそ、その瞬間瞬間には、まったく馬鹿げた狂人の行いとしか見えないようなことの連続に陥るかもしれない」
そして、晩年の松陰の心境について語る際に、当時の民衆の世界を次のように規定します。「すべてをシニカルに見て笑い飛ばすような江戸末期的」「毎日のことが楽しければいい、明日のことは考えない、お国なんかどうなってもいいじゃないかという民衆の大きな動きというか、基本的なメンタリティがあった」
それに対し、松陰の心境を以下のように規定します。
「その上で松陰は、自分の精神が狂っているのではないかと疑われるほど孤立し、先鋭化していく状況を自覚したに違いない。そして、松陰が非常に孤立し、『自分一人しかいないんだ』『自分は狂人だ』と思った段階から、明治維新というものが動きだしてくる」
三島は、聴講する盾の会の会員にさらに語ります。
「私はこの覚悟を、諸君が腹の中に一人ひとり持っていただきたいと思うのです」
そして、三島は左翼の大衆運動を、「大衆が動かなければ何もならない」「まず大衆を巻き込むことだ」とします。
それに対し、「われわれの立場」として次のように説明します。
「自分の孤立というものを恐れない。孤立して他に助かる道もなければ、味方もいない、そうなった状況から初めて何かが始まる。言わば絶望からの出発ということが、大きな特色だと思うのです」
三島は、これを「能動的ニヒリズム」と説明します。
そしてこう締めくくります。
「その絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人は、私はその松陰の忠義の道に行くことはできないと思う。仮にも世間を甘く考えて、世間の支持を期待したり、世間の、つまり大衆というものが自分の味方であるというような気持ちの思想の磨き方ではどうにもならんというところにきているのではないか、というようなことを考えました。」
「テレポリティクス(テレビ型政治)」、「劇場型政治」などと言われる、現代の時代潮流に対しても、大変示唆的な三島由紀夫の「遺言」であると感じます。
その意味で、三島由紀夫と言う存在は、混迷を極める現代に対しても、確実に「時代精神」としての光彩を放っていると私は感じるのです。音符




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