この言葉は、吉田松陰の言葉です。
この言葉を、三島由紀夫は、昭和45年6月11日に、彼が育成していた、盾の会の会員を対象とした会で引用しています。
本年は、三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、盾の会同志と自刃して以来、11月25日に40年が経過します。
以下、月刊Will・12月号・持丸博・解題・三島由紀夫・最後の講話「われは忠義をなさん」より引用させて頂きます。
三島は、「功業」を次のように説明しています。
「功業とは、自分が大政治家として権力を握り、その力を背景にして自分の考えたことを実現していき、いずれは大勲位の勲章をもらい、うまくいくと国葬もしてもらえるような道です。」
それに対し、「忠義」を次のように説明しています。
「しかし、忠義というものは、野垂れ死にをする道です。そして、何ら効果がないかもしれず、人に笑われるかもしれず、それこそ、その瞬間瞬間には、まったく馬鹿げた狂人の行いとしか見えないようなことの連続に陥るかもしれない」
そして、晩年の松陰の心境について語る際に、当時の民衆の世界を次のように規定します。「すべてをシニカルに見て笑い飛ばすような江戸末期的」「毎日のことが楽しければいい、明日のことは考えない、お国なんかどうなってもいいじゃないかという民衆の大きな動きというか、基本的なメンタリティがあった」
それに対し、松陰の心境を以下のように規定します。
「その上で松陰は、自分の精神が狂っているのではないかと疑われるほど孤立し、先鋭化していく状況を自覚したに違いない。そして、松陰が非常に孤立し、『自分一人しかいないんだ』『自分は狂人だ』と思った段階から、明治維新というものが動きだしてくる」
三島は、聴講する盾の会の会員にさらに語ります。
「私はこの覚悟を、諸君が腹の中に一人ひとり持っていただきたいと思うのです」
そして、三島は左翼の大衆運動を、「大衆が動かなければ何もならない」「まず大衆を巻き込むことだ」とします。
それに対し、「われわれの立場」として次のように説明します。
「自分の孤立というものを恐れない。孤立して他に助かる道もなければ、味方もいない、そうなった状況から初めて何かが始まる。言わば絶望からの出発ということが、大きな特色だと思うのです」
三島は、これを「能動的ニヒリズム」と説明します。
そしてこう締めくくります。
「その絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人は、私はその松陰の忠義の道に行くことはできないと思う。仮にも世間を甘く考えて、世間の支持を期待したり、世間の、つまり大衆というものが自分の味方であるというような気持ちの思想の磨き方ではどうにもならんというところにきているのではないか、というようなことを考えました。」
「テレポリティクス(テレビ型政治)」、「劇場型政治」などと言われる、現代の時代潮流に対しても、大変示唆的な三島由紀夫の「遺言」であると感じます。
その意味で、三島由紀夫と言う存在は、混迷を極める現代に対しても、確実に「時代精神」としての光彩を放っていると私は感じるのです。
