岡田光興の光覚への道

岡田光興の光覚への道

 このブログは、主に日本の思想家を中心として、私たちが求めて止まない「光の道」への示唆と教示を含む言葉や文章を紹介していくものです。それらが、私たちがこれからの激変する社会を生き抜く、大いなる「光の指標」となることを祈って止みません。
 

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a313jさんのブログ

【『しきしまの大和ごころを人問はば朝日に匂ふ山ざくら花』】


国学者、本居宣長(もとおり のりなが)の寛政二年(1790年)、六十一歳の作です。


この年の八月、宣長は自画像を描き、それにこの一首を自賛しました。この自画像は本居家に蔵せられ、続日本歌学全書第三編の巻頭にその写真版が載せられています。


全身をやや右方に向けて端坐していますが、なかなか良く描けていると、『吉野朝の悲歌』などの著書もある、『幕末愛国集』(昭和14年刊)の著者の川田順氏は言います。


また、同著で川田氏は「此(こ)の一代の名歌が自選歌に漏れてゐるのは如何のもの乎(か)」と、宣長の胸中を慮(おもんばか)るのです。


そして川田氏は、この歌の従来の解釈に疑義を呈しています。以下、『幕末愛国集』の記述です。


「此の歌を通俗に解し、櫻花の散り方の潔いのに比して、日本武士の矢猛心(しもうしん)を歌ったものと思ふ人多いのは、訂正を要する。朝日に匂ふ、麗(うら)らかな春の朝陽に色うす紅く染まった山櫻の意で、決して散る趣(おもむき)ではない。又抑(いやしく)も此の歌は宣長自画像の賛なるを思へ。宣長の理解した櫻花の美は、決して散り際のみの美ではなく、もっと広く大きな、種々相を含んだ美である。」とするのです。


さらに、川田氏は、高木武博博士著『日本精神と日本文学』の中にある「櫻と日本国民性」の一章にある、櫻花の特質の七項目を挙げています。(一部難解な言葉は現代風に置き換えであります。)


それは、


(一) 我が国の風土に最も適応していること。

(二) 全国を通じ普遍的に豊富に存在していること。

(三) 春たけなわなる頃に咲いて陽気な趣があること。

(四) 無数の花が集団的に群がり咲くこと。

(五) 無数の花が一斉同時に開落すること。

(六) 花の姿や香が清楚高潔にして華麗な美観を発揮すること。

(七) 花の咲きぎはも散り際も潔く華やかでいささかの未練がないこと。


さらに、川田氏は続ける。

「そうして此等の諸特質はやがて我が国民性に叶(かな)ひ、日本精神とも通じてゐるのである。宣長は蓋(けだ)し此の日本精神の象徴を櫻花に最も色濃く発見したのであった。しきしまの大和ごころとは、取りもなほさず日本精神の謂である。

 であるから、此の歌を解して、一部の人々が、『日本人の風流心』とのみ考へる如きも、亦誤謬(ごびゅう)であらねばならぬ。風流心と云ふやうな、薄べったい、狭いものを宣長は歌ったのではない。

 要するに、櫻花の美の主々相を研究し、日本精神の広く大きく深く含蓄多きなる事を知った上で、宣長の名歌を味読せねばならなぬ。」

この様に、川田氏は、宣長の奥深い「櫻花観」を深く称揚しているのである。

 ただ、これに続いて、川田氏は言う。

「以上は宣長の名歌に関しての事であるが、それを離れて、一般的に考へると、櫻花の美の種々相の中で、最も普通に人の称揚する所は、散り際の潔いことである。井上文雄の作『いさぎよき大和心を心にて他国(よそ)には咲かぬ花ざくらかな』の類が最も普遍的な櫻花礼賛であり、維新志士の吟詠中にしばしば現はれて来る櫻花の歌は悉(ことごと)く此(こ)の思想に属するものだ。」


私はさらに考えます。桜が桜たる最大の所以(ゆえん)は、その場を「祭りの空間」、日常とは異質な空間にする「触媒的作用」ではないだろうか。桜が咲く時、私たちはその場が、今まで自分たちがいた何気ない日常空間から、「別の異質な空間」へと「転位(てんい)」していることを、直観的に感得するのだと考えるのです。そしてその「直感的感得」こそ、日本人の日本人たる所以(ゆえん)なのではないでしょうか。

桜の持つ「祝祭的空間への触媒的転位性」。このことを、私は桜が咲く時期に、その中にたたずみながら、いつも思いめぐらすのです。

それは、吉野の桜が「花醍醐」と言われ、その花吹雪の全山の谷間を舞い満ちる光景が、吉野の山を「醍醐の空間」へと「転位」させることからも、推察されるのと、私は思うのです。






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 早稲田大学創立者・大隈重信侯は、常々「人生125歳説」が持論でした。

「人間は本来、125歳までの寿命を有している。適当なる摂生をもってすれば、この天寿をまっとうできる」

 この大隈侯の説を、「一日一食空腹健康法」で、長寿遺伝子の「サーチュイン遺伝子」に注目する、南雲吉則先生の著書の中に発見しました。

 その根拠は、次の様なものでした。

 「生理学者の説によると凡ての動物は成長期の五倍の生存力をもっているというてある。そこで人間の成熟期はおよそ二十五歳というから、この理屈から推してその五倍、百二十五歳まで生きられる」(大隈重信述「人寿百歳以上」)


 大隈侯御自身は、77歳で第二次大隈内閣を組織し、83歳まで生きています。

 「若し吾輩にして、此の百二十五歳定命説を理解することが、もし今三十年早かったならば」という言葉を残しています。

 日常生活はいたって規則的で、当時の日本人の平均寿命を考えるとかなりの長寿だったのではないでしょうか。

 その南雲先生は、「そもそも人間の寿命は121歳という説があります」と紹介しています。但し、出典、根拠は不明記です。

 早稲田大学では、「125歳寿命説(但し摂生が条件)」という数字が、特別視され、創立45周年(1927年・昭和2年)に竣工した大隈講堂の塔は125尺(約38メートル)に設計され、また、1963(昭和38)年には、大隈重信の生誕125年記念行事が催されています。但し、早稲田卒業生でいまだに、125歳を生きた人はいないのは残念です。


南雲先生の著書によれば、アメリカのコーエン博士が1979年に調査した人の寿命を短縮させる生活習慣が挙げられています。


タバコを吸い続ければ、6年寿命が縮む。

肥満だと同じく6年寿命が縮む。

睡眠不足の生活を続けていると、4年寿命が縮む。

独身は、男性で8年女性で4年寿命が縮む。


 現在、早稲田だけではありませんが、学生はタバコ、肥満、睡眠不足、独身(男性)で、南雲先生曰く、24歳寿命を縮めているのが現状です。


早稲田の建学の精神は、「在野の精神」です。しかし、この大隈侯が晩年に主唱した「125歳への摂生と養生の精神」を、今、もう一度見直すべきなのではないでしょうか。








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『わがこころ澄みゆく時に詠(よ)む歌か詠(よ)みゆくほどに澄めるこころか』


若山牧水(明治18年・1885年~昭和3年・1928年)は、全国各地を逍遥し、幾多の歌を作った歌人です。


『白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ』


『海の声山の声みな碧瑠璃(へきるり)の天(そら)に沈みて秋照る日なり』


これらの色彩感豊かな歌は、ふと、時空を超えて、私たちを牧水のいた時空へと誘うような感があります。


牧水が、自らの「歌の道」について語っている、『歌と宗教』という文章があります。

その中にあるのが、冒頭の歌です。


『わがこころ澄みゆく時に詠(よ)む歌か詠(よ)みゆくほどに澄めるこころか』


大意は、以下のような意味です。


私の心が澄み切った時に自然と、私の中に歌が湧き上がってくるのだろうか。それとも、私が歌を詠むことで、その歌の持つ心の自浄作用で、心が益々澄み切っていくのだろうか。


牧水は、次のように『歌と宗教』の中でそれを説明しています。


「歌に詠み入っている瞬間は、普通の信者たちが神仏の前に合掌礼拝している時と同じな、或いはそれ以上であろうと思う法悦を感じているのである。おそらく私は、この歌の道を自分の信仰として、一生進んでゆくであろうとおもう。」


宮崎の延岡から上京した牧水は、東京で歌人の尾上(おのえ)柴舟(さいしゅう)を訪ねました。また入学した早稲田大学文学科高等予科では、教室で北原白秋と親しくなり、後に二回も下宿を共にしました。


牧水はその著「おもひでの記」に、「私の祖父は武蔵川越在の農家の出で、幼児より江戸に出で両国の生薬屋に奉公してゐた。」と書いています。しかし、実際には、「武蔵川越」と書いていますが、現在の所沢市神米金、当時の入間郡富岡村が、牧水の祖父の若山健海の生家でした。


西武新宿線新所沢駅から県道6号川越所沢線を川越方面に行くと、神米金(かめがめ)という珍しい地名があります。

明治9年に、神谷新田の「神」、久米新田の「米」、掘金新田の「金」をあわせて、「神米金(かめがめ)」と命名されたということです。

この神米金(かめがめ)」にある、下富交差点に八雲神社があります。この八雲神社の隣が、若山牧水の祖父の若山健海の生家です。


 若山健海は、13歳の時に江戸へ出て両国の薬屋に奉公し、その後長崎で蘭学と西洋医学を学びました。26歳の時に宮崎県東臼杵郡東郷町の坪谷に移り住みました。そして彼は江戸に出ていた時の友人の水野栄吉の娘のカメと結婚しました。その長男の若山立蔵(りゅうぞう)が、牧水の父でした。


牧水の祖父、若山健海の生家は、我が家から、車で15分程度の場所です。


現在、牧水の歌碑が建立されています。


『のむ湯にも焚火の煙匂ひたる山家の冬のゆふげなりけり』


 歌集『溪谷集』に「秩父の秋」と題して96首収められているものの中の一首で、大正6年11月に詠まれた歌です。「十一月のなかば、打続きたる好晴に乗じ秩父なる山より渓を歴巡る、その時の歌。」と詞書がある歌です。

牧水は、秩父も訪れ、帰りに、名栗温泉、飯能なども訪れています。


【参考】


【若山牧水記念館】


【若山牧水】