うらないを信じない人でも、気持ちのどこかによいことを聞きたいと思うのか、半信半疑でもうらないで楽しんでみたいという好奇心というか、そういうものがあるみたいだ。
昔はこの占ってくれる人を”ありまさ”といったそうだ。
で、
この「占者をありまさといふとかやと云へり 思ふにありは明の義にて世にありありといふ 是なり まさは正しくをいへり」(喜多村信節、『嬉遊笑覧』)
と。
なるほどなあ、あきらかに正しいって意味か。
うらない、そ~いうものとして、受け入れるのが正しいのかな。疑ってかかっても、占いに向き合うちょっぴりドキドキする楽しさがなくなるし。