理屈っぽい人がいる。摩訶不思議なこと、それをありがたいと説く人も理屈好きのようだ。他人にまでそれを押し付けようとしたり。
でも、いつもそんなこと気にかけているほどヒマでもない。
理由?たいした理由なんてなくてもいい、大事なことは別にある。
「江戸ッ子は智慧なんか重んじない。総てのことを語呂で合して居るのです。・・・お隣り来ましたからお蕎麦を配りませう。或は運のいゝやうに饂飩を食ふ。だが、是は是でいゝのです。」
(諸岡存、「精神病学から見た邪教迷信」、昭和11年。)
たとえば江戸っ子のごろあわせだなあ。
ソバに引っ越してきたから近所に蕎麦を配る。
運がいいように、運を食う(饂飩を食う)ということがあったようだ。
理由や理屈が問題じゃあない、語呂あわせがどうとかというわけでもない。
引っ越した先のご近所と仲良くなれる、それが問題。うどんを食べて運が向いてくるかが大事。
なんでお蕎麦を?はは、お側に来ましたので、ひとつお蕎麦を、でいい。
これで人の付き合いや関わりが円滑にいくならけっこうってこと。