草苑保育専門学校 2014年修養会説教(下)

津久井湖城山公園のラベンダー

〈津久井湖城山公園のラベンダー〉

今保育現場で活躍されている多くの草苑の先輩たちの後に私たちが

連なっていけるよう、一人ひとりがこの修養会と学園生活において

より一層成長できるようにお祈りしましょう。

天の父なる神さま、私たちは良き保育者になるべく

今修養会の2日目を迎え、主題講演ならびに分団の形を通して

学びの時を持とうとしております。

どうかイエスさまが聖書で言われている

「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこ

に入ることはできない」

というみ言葉を通して自らの人間性を高め、保育者としての自覚

を持つことができますように。

この願いと祈りを主イエスキリストの御名を通してみ前におささ

げいたします。アーメン


(完・2014.6.20)
草苑保育専門学校 2014年修養会説教(中)

津久井湖畔のアジサイ
〈津久井湖畔のアジサイ〉

先ほど歌った讃美歌484番の歌詞を見てください。

しおりの34ページです。そこに口語訳が載っていますが、1番の

歌詞を見ると

「愛の主イエスは小さいものをいつも愛して守るかたです」

とありますね。社会のめだたないところ、ひずみやよどみのたまる

ような日陰のところにこそイエスさまの福音が必要でした。

そうです。現代の言葉で言えば福祉が行われるべきところこそ

キリスト教の活躍の場があります。

事実日本でも明治以降、保育・幼児教育においてキリスト教が果た

した役割は小さくありません。キュクリッヒ先生を始め多くの先輩

の先生方によって拓かれたこの草苑学園の歴史も、子どもたちに

手を置いて祝福されたイエスさまの言葉が今につながって作られた

ことを決して忘れてはなりません。



ここで少し私のキリスト教との出合いをお話しします。

私は1956年昭和31年生まれで58歳です。教会に行くと両親が信徒と

いうクリスチャンホーム出身の人も多いのですが、私の両親の宗教

は仏教でした。父方は真言宗、母方は天台宗だったのです。

父は中央線阿佐ヶ谷駅前商店街で小さな洋品店を営んでいました。

母も一緒に店番をしていました。


4歳になった私は神社の隣にある杉並幼稚園の2年保育に通いまし

た。

黄組の担任だった小川和子先生が私を大そう可愛がってくださり、

夏休みに海水浴にも行けない私のことを気にかけてか、熱海市伊豆

多賀の先生の実家に同級生の女の子と2人、連れて行ってくれたの

です。先生の実家の前はすぐ伊豆多賀の海水浴場でした。楽しかっ

たことを今でもよく覚えています。

小川先生はそのうち幼稚園を結婚のため退職されました。

そしてそのお相手がアメリカ聖公会に勤めており、誘われて初めて

キリスト教会の門をくぐったのです。

教会の日曜学校はとても楽しく、大学生の先生たちに大切に育んで

いただいたので、小学生の私にとって教会が生活の一部となったの

です。その後4年生の時に一家そろって洗礼を受けることになりま

した。私にとって幼稚園の先生との出会いがキリスト教との出合い

になりました。

そして去年から草苑保育専門学校の講師となりましたが、これも

何かのご縁かと思っています。

(次回に続く)
草苑保育専門学校 2014年修養会説教(上)

2014年の修養会が6月11日(水)~13日(金)まで、山中湖の

グリーンヒルズニューみなみで行われました。

宿舎から見た富士山
〈宿舎から見た富士山〉


私は今年初めて参加しましたが、2日目の早朝礼拝で説教

をしたので、ここに3回に分けて再録します。



 「聖書における保育」という題でお話しします。

今読んでいただいたマルコによる福音書10章13~16節

「子どもを祝福する」、この箇所にキリスト教教育の原点があると

いうことは、昨日の主題講演で濵田先生が取り上げられました。

少し重なりますがこのことからお話しします。

イエスさまが伝道された当時は、子どもは大切には扱われていなか

った。それどころか、ギリシャ語で小さい子どもを意味する

「PAIDIA(パイディア)」という言葉には‘足手まとい’という

ニュアンスが含まれているのだそうです。


イエスさまのところに子どもたちを連れてきた人々を弟子たちが

どうして叱ったのでしょうか?当時のユダヤでは衛生状態が悪く、

子どもは乳幼児のころどんどん死んでいきました。働き手として

家族を支える大人ならともかく、子どもは足手まといな上に

「ごくつぶし」としてやっかいな存在だったのです。

 しかし、イエスさまのお考えは違いました。子どもは決して

ごくつぶしなどではない。宝物であると弟子たちをたしなめられた

のです。一見存在する価値もないようなこの子どもたちこそ神の国

に入る資格がある。「逆転の発想」です。


 イエスさまは言われました。

「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。

神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく、

子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに

入ることはできない」

そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


(次回に続く)