❤紫陽花♪① <日本史と御神籤(おみくじ)> | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

地球の日記☆マーク♪のblog☆

この地球は今大きく変わろうとしている。自国主義からコロナ禍を経て、調和・融和へとイノベーション(変革)し、人生100年時代へ向けて脱炭素の環境優先へとベクトル(地球的エネルギー動向)が動いた。
常に夢を持って波に乗ろう!

 

今度もまた、タフなエクササイズに挑戦。

 

日本史について調査・研究発表しようと

 

準備をしてきた。

 

それで、副題を加味しようと

 

アメーバ御神籤を抽いてみた。

 

これと研究論文をどうコラボするか…。

 

 

笑いが止まらない事が起きる

 

それにしても難問だな。

 

真面目な日本史に

 

笑いが止まらない事が起きる…

 

大丈夫?

 

さてさて、どうなる事やら

 

皆さんのボランチ(舵取り)次第だな。

 

 時、折しも


G7 ヒロシマ サミット


そしてその議長国。


さらに、フォンデアライエンス

委員長の勧誘、根回しによって

遠路ウクライナ🇺🇦から、

ゼレンスキー大統領が

ヒロシマサミットに参加。


さらに、G20のグローバルサウス

8カ国まで加えての大団円で、

中間国をアウトリーチ攻勢し、

ロシア包囲網を固める。


ロシア、プーチンは、


まさに、ロシアンルーレット

のトリガーを自ら引かざるを

得なくなって来た。


リーチ、チェックメイトである⁉️


具体的には、


ゼレンスキー大統領が、


民主主義連合一致で


F16戦闘機などの


各国支援を取り付け


領土奪還の反転攻勢に出る。



そうなると、


プーチンは、追い詰めらて


いつ、核のカードを


切って来るかに焦点が絞られて来よう。



そこて、今回の仲裁国が

クローズアップされて来る。


先ず、中国一国では親玉ロシアには


一蹴されて無理だろう。


すると、同じ中立国のインドなど


グローバルサウス連合が、


戦況の潮時を観て


仲裁に入る見通しが立つ。




過去にも、似たような事例はあった。


日露戦争の時は、


イギリス🇬🇧などが


国債等国際経済等を理由にして、


仲介、仲裁に入り


ロシアの南下侵略を阻止した。




それまでの道のりは


決して平坦では無かったし、


むしろ、これからが大変だろう。

 

 しかし、未来は歴史に学べ‼️


と言う格言もある。


同じ間違いは誰も


しないに限る。


Get Peace ❗️

Get Out The Wars‼️

 

 

今年は2023年。155年前というと1868年。ペリー来航が1853年。大政奉還が1867年。1868年は明治元年。

 

だからその間の15年間が、日本にとって最も密度の濃かった大転換の激動の時代だったのだな。

 

 

何があったのか? なんでそうなったのか?

 

事実を基に調査していこう。 (疑問を調べるのも楽しいが、発表するのもわくわくするね。

 

歴史の隙間に光や風をあてるようで)

 

 

先ずその頃の関連する主な歴史的事実から俯瞰していくと……。

 

1776年7月4日に米独立宣言、1803年米船、鎖国中の長崎に来航し通商を求める。

 

1818年英船浦賀に来航し貿易を求める。

 

1825年幕府は異国船打払令を出す。

 

1834年水野忠邦、老中に就任。

 

1840~1842年阿片戦争で清国の一部を英国に占領される。

 

1840年長崎の砲術家・高島秋帆が西洋式軍装砲術訓練を披露。

 

1844年オランダ、幕府に開国を勧める。

 

1846年英・米・蘭・露船植民地物色に頻繁来航。 

 

1850年佐賀藩、日本初の反射炉稼働し鉄製大砲の鋳造開始。そのころ海防が盛んに。 (老中・阿部正弘)

 

1853年6月米国代将ペリー、4隻の黒船艦を率いて浦賀に来航。

 

空砲艦砲射撃などデモンストレーションをして条約批准などを求める。

 

 

フィルモア米大統領の親書を久里浜応接所で手渡す。将軍家慶薨去。 (老中・堀田正睦)

 

 同 8月幕府、天領豆州韮山代官・江川英龍の指揮で品川沖台場の築造開始。

 

1854年1月米ペリー代将、今度は旗艦サスケハナ号以下7隻(フリゲート汽船2、帆船5)で再来航。

 

以後旗艦をポーハタン号に移管し、品川沖に並んだ砲台場に畏れて戻り横浜村に上陸。

 

 

世界情勢を恫喝説明し艦上接待など硬軟混ぜた折衝で日米和親条約を締結させ、下田・函館の二港を開けさせる。(神奈川条約)

 

 またこの頃、慶応義塾の(現1万円札の)福沢諭吉が友人たちと異国人を観に横浜まで50kmを歩いて物見見物に来ている。

 

1854年4月ペリー代将、下田湾に来航。旗艦ポーハタン、汽船ミシシッピ、以下帆船マセドニア、バンダリア、サザンプトン、サプライ、輸送船レキシントン。

 

1856年在清国米領事だったタウンゼント・ハリスが下田港の玉泉寺を領事館とし、着任す。

 

なぜこんな辺鄙な下田港に米国総領事が?

 

江戸まで踊り子号で2時間半。しかも事務所と呼ぶには程遠い漁村の玉泉寺というお寺さんだ。

 

わざわざ黒船で江戸表まで条約交渉に行き来したとも思えない不便な地である。

 

不思議だ。疑問は解決すべく下田に飛んだ。

 

 

  

 

↓黒船のレプリカがあったので多分ここは下田だろう。

 

 

しかしここじゃよく分からん。そこの山に登って観てみよう。

 

  いや、こっち側じゃない。反対側だ。

 

 

  

 

寝姿山とある。  右の紅い花はきれいだな。なんというんだろう。 紫陽花かな?

 

  

 

この下田湾内に7隻の帆船汽船が入ってきて当時の漁師たちは驚いただろうな。

 

  (この黒船もどきは観光用のイミテーションだが乗れる)

 

 

 

 

 

 

 

 

この写真の湾内左下の方にハリスの米国領事館・玉泉寺がある。

 

 

 

こんなところに黒船が7隻入港した?

 

あの中央の犬走島にペリーの旗艦ポーハタンが釜を炊いて煙をモクモク出して湾内を威圧していたんだな。

 

 

 そして短艇で上図の僅かな陸地を見つけて上陸した。

 

そこに今ではペリー上陸の碑が

建っている。


 

そしてその近くにあの赤と緑のサボテンだか花だかよく分からない草花があった。

 

 

 

道端の花草へ如雨露で水を遣っていたご婦人に、思わず尋ねていた。その花が訊いてくれと言わんばかりに。

 

 

昼下がりの下田港、潮の香りがする漁の船が波に揺られ、海面には午後の光が小波に踊ってキラキラ煌めいている。

 

ペリー上陸地の辺りにあるこれは何だろう・・・・・・佇んだ緑と赤のコントラストがふと僕の心を揺らす。

 

 

 

それは、アロエの花だと言う。

 

「つひでに、紫陽花の花の咲くころにいらっしゃれば、美しゅうございますよ」

 

その情念細やかな話し方は、とてもここには表現しきれないが、奥ゆかしさの中に打てば響くような知性が渦を巻いていて、

 

女優で言うなら女っぷりのいい北川景子か吉瀬美智子かと競うほどの掃き溜めに鶴の感アリ。

 だから、この方との会話は楽しい。


照明が焚かれ、銀レフの日差しが

キラキラ眩しい。

音声さんのブームや

どこかで望遠カメラが

回っていてもおかしくない

ナチュラルなドラマ演技、所作だ。


目は口ほどにものを言いと云うが、会話を交わす中に互いのやりとり、こんなことを言ってもツーカーで分かる方だろう、もっと強い球をクイックで投げてみようか、

とか。

 

出し引き 知識、理性、教養、感情の深さを探り合いながら、時々、ああこの方はいい女人だなと目の光を確かめながら、

 

時々キラッと輝くのを見逃さずここらへんが丁度心地いい会話かな、と。

 

ジョークも織り交ぜながら、率直に分からないことを質問してみる。

 

具体的に列記するとペリーはどこらへんに上陸したとされているのでしょうか?とか

 

何でここ下田を開港地としたのでしょうね。

尤も、横浜にしたって、

開港前は、横っちょに

ちよこっと砂浜がある程度の

萎びた漁村にしかすぎなかったが。

 


唐人お吉さんは英語を話せたんですか。

 

 

そしてあの山は寝姿山ですか?なんの寝姿でしょう?岩がゴロゴロむき出しているから牛さんでしょうか?とすっとぼけて訊いてみた。

するとそのご婦人、少し照れたように小声で、「女性の寝姿と言われております」

 

「そうですか。するとどっちが頭でしょう?」

 

と変な方向に行きそうなので、慌てて舵を切る。「そうですか、沖合から見たら女性の寝姿に見えるんでしょうね」

 

「……」

 

ところで1854年開港一番ペリーはここをマーチングパレードしたわけですね。この地図にある了仙寺まで」

 

「はい、その頃はこんな岸壁なんかなくて岩ばかりだったので短艇で乗り付けたらしいです」

 

うーん、現地ならではのリアルな取材。

 

 

ここで僕は意地悪く「1853年ペリーは浦賀に来航したのになんでこんな辺鄙な漁師町の下田を開港地にしたんでしょうかね」

 

そして目の表情、光を追っていくと、なんとも艶やかな潤いのある瞳がしなやかに応えてくれた。

 

「できるだけ江戸から遠いところにしたかったんでしょう」

 

口よりも目が語っていた。察した。そうか、ここの当時の領主はできた人だったのだな。

 

江戸幕府はここ天領豆州韮山代官、江川太郎左衛門英龍に厄介な外国関連を押し付けた。

 

そしてペリー来航時内政を担当していたのが老中阿部正弘で外交を担っていたのが下総佐倉藩主で老中の堀田正睦。

 

当時の阿部政権は尊攘派、朝廷、水戸学など海防を唱える国内反対派の声を無視して開国、自由貿易へと破滅の道へと踏み込んでいった。

 

 

裏には締め付けを嫌がる大奥の阿部支持派や外国貿易で富国強兵を目指す考え方の連中もいて、日本の今後の在り方も幕藩によって温度差がまちまちであった事と、清国で阿片戦争から香港島などを植民地化された脅威も開国に舵をきったものとみられる。

 

 ただ、日米和親条約で止めておけば良かったものを、老練なハリスに執拗に迫られ1857年5月、日米下田条約に調印してしまった。

 

その頃、老ハリスは胃を悪くして看護婦の派遣を幕府に要請している。

 

幕府、特に堀田正睦はこれはハリス懐柔、籠絡のチャンスと思ったか、いや当時日本に看護婦が無かったから勘違いしたのかもしれないが、ハリスの元にお吉という酌婦を派遣した。

 

 

これが世に名高い「唐人お吉」という有名な伝説を産み出し、今では地域の観光産業及び雇用にも一役かっている。

 

よく考えたら分かる事だが、ハリスは唐の人ではない。米人だが、唐とまんざら無関係でもない。清国の領事をしていたのだから。しかし、米人お吉とは言わない。

 

問題は、老中堀田正睦もよく調べもせず、下田奉行・井上清直や目付・岩瀬忠震の注進を鵜呑みにして、斎藤お吉には許嫁の鶴松がいたことを調べなかったところに手落ちがあり、それが幕府瓦解の蟻の一穴だったとはよもや気が付かなかったろうて。

 

 

さて時を戻ってかのペリー代将は上陸してその後どうしたか?

 

どうやらパレードをしたようである。ペリーロードを。

 

どうだろう、スマホできれいに見えるかな

 

それでは下田のレトロなペリーロードをお楽しみください。

 

 

これは下田の名士旧澤村邸のなまこ壁

 

 

 

右下の靴は、"Bio Fitter Camel "

 

 

 

 

 

 

 

さて、これで準備は整った。

人事を尽くして天命を待つ。

あとは、どんな笑いが止まらない事が起こるか…たのしみだ❤

 

自ら、虎子を得んと

すれば、虎穴に入り


どうなる事やらと懸念したが、

何とか道は開けるもの、、、


お陰様で、幕府瓦解の天王山である

鳥羽伏見の戦いまでの道筋が

うっすらと見えてきた、


志士から京都守護を会津藩

お抱えの身分ながら、壬生狼と

蔑まれ池田屋事件では手柄も立て。


そして、薩摩藩内の志士粛正で

寺田屋事件始末の帰途

島津久光の行列が、

生麦事件を引き起こし薩英戦争、

そして、長州征伐に繋がる

四国艦隊馬関戦争で

幕府権威の弱体化を

見抜いた、坂本龍馬ら志士は

薩長同盟で武器の横流し。

そして、鳥羽伏見の戦いで

革命をほぼ決定付けるのだが、

その史実にどう肉付け、

味付け、色付けしていくか、、、


兎に角、鳥羽伏見までの道筋は

何とか見えてきた。


読者の皆さんの

おかげです。


ありがとうございます‼️



キャンペーン詳細をみるみんなの投稿をみる