桃の節句・雛祭り <後半> | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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常に夢を持って波に乗ろう!

 

前号からのつづき

 

 事の起こりは……、そう、奴マシューペリーか。奴さえ来なきゃ、いや来るだけならまだしも、空砲とは言え幕威をないがしろにする威嚇艦砲射撃を何度も執拗にやりおって……。

然も親書なんぞ要らん言うても受け取るまでは帰らん。ったく、しつっこいやっちゃ。で、返書をもらいに1年後にまた来る。だと。

こっちは大急ぎで各地に反射炉やら品川沖などに砲台場を拵えとる最中に、まだ1年も経ってない1月早々またやってきおって今度は条約締結を催促する。だと、よっぽど閑なんだな。

 が、ふふ、奴め建造し終わった数か所の台場を見てギクッとしたようで慌てて横浜村の方に尻尾を巻いて逃げおったな。ふふふ。わははは。江戸湾の出入り口をありったけの火船で埋め尽くして火矢を放てば弾薬にも火が点こうて。いやいやそれじゃもったいないな。元寇で夜討ち、朝駆け等で返り討ちにしたように、夜間ありったけの水練上手なる伊賀、甲賀、根来の忍者衆を水遁の術で黒船に近づかせ鉤縄をかけ一斉に甲板から襲撃して寝込みを襲えば乗員は生け捕り。黒船もこっちのもの。

……惜しいことをした。高く売れたろうな。売れなくてもその奪った黒船を幕府海軍に仕立て直して、清国や米国に遠征に出かける。ペリーや水兵どもは夷敵の盾、人質にしても良かったかな。窮鳥懐に入らずんば猟師もこれを殺さず。だったかな。来る者これを拒まずか。しかし4隻じゃ多寡が知れてるな。

 ご存知かな。浜離宮のカモ猟もそうだったな。上空を飛来するほかのカモから見える水場に囮の飛べない美しいカモを放し飼いにしておく。 すると飛来してるカモがそれを見てそこへ降りてきてカップリングせんと寄って来たところを猟小屋から鉄砲を射かける、網で捕まえる。ネギ背負って来るカモはまずいないが分捕った黒船を囮にして泳がせておけばほかの黒船が寄ってくるじゃろう。次々に増えていく。

 ま、これは言ってみれば海賊行為じゃが、瀬戸内海にゃ昔っから村上水軍や来島一族なんかなんぼでもおったじゃろう。それらを活用せんから夷敵に舐められてしまう。オールジャパンで一致団結すりゃこわいもんなんぞありゃせん。

第一領海侵犯で江戸湾に入ってきたときから、もうこっちのやり方に従ってもらうのが定法。不法侵入には文句は言わせん。焼いて食おうと煮て食おうとこっちのもんじゃ。その為に長崎、出島を玄関に設けておる。あいさつも礼儀も知らん定められた手順も踏まんで浦から断りなしに入って来りゃ泥棒とおんなじじゃ。郷に入れば郷に従えじゃ……。

 

 

 そんなことを大老たる井伊直弼が考えていたかどうかは分からないが、そもそも大老職を復活させ井伊掃部頭直弼をその大老職に任じた背景には、将軍後嗣問題あり、また自由貿易を許したが為に英国に敗れた清国の例もあり、来航外圧からか海軍力で劣る幕府が勅許なく独断で条約を結んでしまった後始末にある。

やむなく幕府南紀派譜代の老中堀田正睦が京都朝廷(攘夷派の孝明天皇)に勅許を求めたが得られなかった事や、幕府の頭越しに水戸藩に天皇から密勅が渡って、その勅諚を返せ返さないと一悶着あり、幕府13代家定将軍は安政5年1858年4月23日朝、同じく南紀派で譜代大名筆頭の彦根藩主井伊掃部頭直弼を大老に任ずる大命を下した。

井伊掃部頭直弼は11代彦根藩主井伊直中の十四男として生まれた。普通であれば部屋住みのまま生涯を終えるところだが12代彦根藩主だった直亮が亡くなり弟の直弼に13代藩主の地位が転がり込んできた。

誰が付けたか「掃部頭」と称し、不穏分子を一掃することになるのかスイーパーかもん。

 

 

こういうプラグマティズム(実践)から正しい日本史を学ぶのも一つの手。人それぞれA型だけではない人間型もあって然るべし。それは想像力を働かして読み解いていく事が血となり肉となり骨となる。

 

然し、その時代の社会背景も押さえておかなくては道を誤りかねない。

 

先ず歴史年表から表出した関連事実は           

 

11代家斉 1834年 この年諸国は大飢饉になる。 (天保5年)

     1837年 大塩平八郎の乱起こる。   (天保8年)

12代家慶 1840年 清で阿片戦争起こる。

     1842年 阿片戦争で英国が武力により清国の香港島を占領。

     1846年 米国東インド艦隊ビッドル司令長官、浦賀に来航。 (弘化3年)

     1853年 6月 米艦隊ペリー代将、黒船4隻で浦賀に来航。 将軍家慶薨去。(嘉永6年)

13代家定 1853年 10月徳川家定13代将軍になる。

     1854年 ペリー再来航す。(安政1)    

 

          日米和親条約調印。吉田松陰、密航を企て囚わる。西郷隆盛、島津斉彬のお庭方役となり人脈を広げる。

     1855年 江戸大地震(安政大地震)。水戸藩の徳川斉昭公、海防参与となる。

     1856年 アロー号事件(第2次アヘン戦争~1860年) 

          米総領事ハリス下田着任。

 

          徳川家定と島津斉彬の養女・篤姫が結婚。

     1857年 日米下田条約調印。ハリス領事が将軍に謁見。

     1858年 幕府、日米通商条約の勅許を奏請するが朝廷はそれを許さず。攘夷を譲らない孝明天皇は逆に8月8日先ず水戸藩     

          にそして10日幕府に「戊午の密勅」を下す。

         

    (安政5年)大老に井伊直弼就任。(将軍家定、南紀派の思惑絡みと譜代筆頭の実績から)

          日米修好通商条約調印。慶喜の対抗嗣慶福(家茂)将軍後嗣になる。

          将軍家定薨去。(大老らの)幕府、徳川斉昭・松平慶永らを処分。島津斉彬歿す。

         9月、安政の大獄始まる。家茂将軍になる。

14代家茂 1859年 1月 橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎ら刑死。

(万延1)1860年 3月 桜田門外の変で水戸浪士らに暗殺さる。 

         8月 政敵を失くして張り合いが無くなったか徳川御三家水戸藩第9代藩主・徳川斉昭、謹慎中の水戸城中で歿す。 

     1861年 5月 水戸浪士ら高輪東禅寺で英国公使らを襲撃。尊王攘夷の世風、薫風に交じる。

(文久2) 1862年 1月  坂下門外の変。老中安藤信正が水戸浪士6名に襲撃され負傷。

         2月 孝明天皇の妹・和宮、もとい、将軍家茂・皇女和宮真親子内親王降婚儀。(公武合体実現かとみられたが)

         4月 寺田屋騒動。(薩摩藩内の内紛、尊攘先駆を粛清)

         8月 生麦事件。島津久光一行の行列妨害した騎馬英国人男女4人が殺傷さる。(これが後に薩英戦争に発展す)

        閏8月 尊攘の騒擾を鎮める為、会津藩主松平容保、京都守護職に任命される。

     1863年 3月 先月清河八郎に率いられて京都入りした浪士隊、会津藩預り壬生浪士(新選組)結成、京の治安にあたる。

         5月 幕府、英国に焼き討ち事件や生麦事件の賠償金を支払う弱腰外交。

           長州藩、攘夷の期限を守って下関海峡を通航中の米船砲撃。長州の井上聞多、伊藤博文ら英国に密航。

         6月 四国軍艦が長州藩に反撃。高杉晋作、四民混成の奇兵隊を結成。

         7月 薩英戦争。(生麦事件の報復か、しかし英軍は多くの戦死者を出し薩摩から撤退した)

 (元治1)1864年 6月 池田屋事件。長州兵が(蛤御門)禁門の変で朝敵となる。第一次長州征伐。

         8月 馬関戦争(英仏米蘭連合艦隊、下関を砲撃)

        12月 長州藩内で幕府軍と交戦するか、和睦し責任者を切腹させるか藩論がまとまり幕府に屈す。

 (慶応1)1865年 2月 長州藩の諸隊、内戦で勝利する。正義(討幕)派が藩論をまとめていく。

          4月 幕府、西国諸藩に第二次長州征伐発令。四面楚歌、絶体絶命の長州藩。

     1866年 1月 京都で秘かに薩長同盟が西郷、桂(木戸)らの間で口約束として交わされた。後日坂本龍馬が成文化

               す。また長州に禁じられていた武器の横流しが亀山社中を通じて取引される。

        3月 新撰組による寺田屋襲撃事件で坂本龍馬負傷し、妻おりょうと鹿児島に。

        6月 第二次長州征伐開戦。西郷ら薩州勢は幕府の長州討伐出兵令に応ぜず秘かに長州支援策動していた。

        7月 将軍家茂薨去。

15代慶喜     9月 勝海舟、安芸広島厳島で長州藩との休戦を協議する。

         12月 徳川慶喜第15代将軍に就任。攘夷派の孝明天皇崩御。

(慶応3)1867年 6月 大政奉還の薩土密約。

        10月 大政奉還。薩長両藩主に討幕の密勅。王政復古の大号令下り三条実美ら許される。

        11月 京都で坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺される。摂政、関白、将軍を廃し総裁、議定、参与職設置。

 

(明治1)1868年 1月 戊辰戦争(内戦)開戦。薩摩・長州・土佐藩兵ら伏見で幕府軍と戦う。

          桑名藩、鳥羽・伏見の戦いで敗北し桑名城明け渡す。慶喜へ追討令下る。

          王政復古(政権交代)を各国公使へ布告。

        3月 五箇条のご誓文。会津藩、軍制改革で朱雀、玄武、青竜、百虎隊編成し農兵を募集。

        4月 会津藩と庄内藩の軍事同盟締結。新政府軍、江戸城を開城。

        5月 奥羽越列藩同盟成立。徳川家達を駿府70万石に封ず。

          長岡藩、奥羽越列藩同盟に加盟。佐賀藩の反射炉で造った大砲で上野彰義隊を砲撃、潰走させる。 

        7月 江戸を東京と改称。東北戦線、会津藩の白虎隊自刃。

        9月 会津藩降伏し、会津若松城開城。藩主家松平容保父子、妙国寺に入る。

        10月 江戸城を皇居とす。旧幕府軍、蝦夷地を占領。

(明治2)1869年 1月 薩長土肥藩主、版籍奉還を上奏。(版=土地、籍=人口) 

        3月 天皇、東京城に到着(東京遷都)「皇城」と称す。横浜・新橋間の鉄道着工。

        5月 戊辰戦争終結。土方歳三戦死。

        6月 版籍奉還許可。各藩主が知藩事に任じられる。公家・諸侯を華族と称す。

          会津藩、会津松平家の家名再興が認められ、未開の地 斗南藩3万石が与えられる。

        8月 長州軍の雄、大村益次郎が京都三条木屋町の旅館で刺客に襲われ重傷を負い、後死去す。

(明治3)1870年 4月 種痘の全国実施。

        10月 兵制統一布告。陸軍は仏式、海軍は英国式。

     1871年 7月 廃藩置県により、藩が府県になる。

        8月 散髪廃刀令下る。

        10月 岩倉具視ら欧米視察。

    1872年 2月 兵部省を廃し陸海軍両省を設置。

         9月 新橋-横浜間で鉄道開通。

       11月 全国徴兵の詔。大陰暦を太陽暦に改めて、12月3日を明治6年1月1日とした。

    1873年 1月 徴兵令を公布。

         2月 キリスト教が解禁。

         7月 地租改正(土地所有者に納税義務)。

       10月 西郷隆盛(征韓論で破れ)、板垣退助、江藤新平ら国内残留組参議を辞す。

    1874年 1月 東京警視庁設置。(薩閥大久保内務卿-川路利良、仏Policeに学ぶ)

       2月 元司法卿・江藤新平ら佐賀で挙兵(佐賀の乱)。

       5月 大久保利通、台湾へは出兵。

       6月 北海道屯田兵制度を設ける。

   1877年 2月 西郷隆盛、不平士族ら私学党に担がれ九州で西南戦争起こる。

        4月 東京帝国大学(現東大)設立。

        5月 木戸孝允(桂小五郎)歿する。

        9月 西郷隆盛、自刃。

   1878年 5月 大久保利通、暗殺される。

         政党政治に向けて全国で政治活動が広まる。

   1884年   鹿鳴館にて西洋舞踏会の練習、公侯伯子男の各爵位等洋化す。

   1885年12月 太政官を廃し内閣制度創設成る。初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任。

   1889年 2月 大日本帝国憲法・皇室典範を公布。衆議院議員選挙法設置。東海道本線開通。

   1890年 7月 第1回衆議院議員総選挙施行。元老院廃止。教育勅語発布。

 

 

列挙したこれらの関連性が行間から想像できて浮かび上がってきたら歴史、人文、いや人生が面白くなる。

例えば1856年アロー号事件と米国総領事ハリス着任。これらの関連性は?

アロー号事件を幕府との外交に持ち出して恫喝した在清国元領事のハリス。日本を舐めてブラフ賭けてきたなと読める。屈辱の恫喝外交に怯んだ井の中の蛙、井伊幕府も情けない。日本もそこで冷静に切り離して事を分けて考えれば良かった。それは英国と清国の事であり吾が国とは別のこと。また他国の事だが、清国が英国に貿易を許したこと。さらに貿易利権で汚職蔓延監督不備の落ち度があった清国に付込んで英国の侵略意図が発覚し、その糾弾に対し火力軍事力で解決しようとした英国もアンフェアー、自らに恥じることがなかったか英国王室の見解はどうであったのか。自律法クリーンハンドの法則に従っていない点は後に香港島返還の例でも明らか。

 

 

で、その条約の内容が問題で1854年の日米和親条約は当時の国力からして、ま止むを得ないとしても、安政5年(1858)6月19日の日米修好通商条約調印は拙かった。冬季五輪のカーリングでいえば一挙4失点のビッグエンドで幕府ギブアップの形に見えた。

 

 

 

その条約とは14条あって下田など6港を開港。江戸、大坂開市。治外法権。外交官特権。関税自主権を否定したことなどから不平等条約として認識された。但し清国侵略の例からアヘンの類は輸入を厳禁した。

調印から4日後の6月23日、御三卿の一橋慶喜と田安慶頼が江戸城に登り、井伊大老に天皇の勅許が無いのに勝手な調印をしてと詰め寄り責任を追及した。

さらに翌24日には御三家の徳川斉昭が尾張藩主徳川慶恕とその倅長男である現水戸藩主徳川慶篤とともに江戸城に登城し同じく大老井伊直弼に詰問した。

人間普通こういう波状攻撃にはやや怯む面もあるが、大老井伊は違った。そういう逆境を逆手に取って逆にWテイクアウトに粉砕してしまう。

徳川斉昭が押し掛けた日は御三家の登城日ではなかった。フライングでペナルティ、井伊はこれを口実に7月5日斉昭に急度慎、慶恕と松平慶永に隠居慎、慶篤と一橋慶喜に登城禁止を命ずる。さらに井伊掃部頭は一橋派の大目付や勘定奉行などを左遷し、役立たずの堀田正睦を罷免、間部を老中首座に起用し反対派を一掃、独走の道へ。

 

 

孝明天皇には6月22日条約締結の報が入った。攘夷一辺倒の孝明天皇は憤慨し有栖川宮へ天皇譲位を口にして朝廷は蜂の巣を突つく、引っ繰り返す大騒ぎ。しかし井伊幕府はさらに開国路線を進みそうなので、天皇は歯止めをかける為「勅諚」を御製(戊午の密勅)で、これは8月8日まず水戸藩に、そして次に10日幕府に下された。

勅諚には条約に締結調印したことを「勅答の御次第に相背きたる、軽率の取り計らい云々」とあり、斉昭らへの処分は納得し難いとし、三家、三卿、親藩、列藩を集めて「一同群議表情(合議制)による幕政を実現せよ」と幕政に介入してきたのである。

 

その戊午の密勅に反撃して安政の大獄と言われる井伊反対派の粛清が始まり、吉田松陰、橋本佐内らが処刑され、政敵をことごとく処分していく譜代筆頭大名である井伊大老の焦りでもあった。

そうして前作の<前編>「井伊大老御覚悟」へと繋がっていく。

 

 

マシュー・カルブレイス・ペリーが投じた四隻の空砲から、天皇、朝廷、将軍、幕府、御三家、三卿、譜代、外様など様々な思惑後嗣利害、主義主張、侃々諤々紛糾が渦巻き、やがて日本人同士で粛清が粛清を呼び混乱したどんぐりの背比べ意地張り内戦へと無益な殺生に波紋の広がりを見せていく。

 

 

つまり将軍側と朝廷側が一枚岩(オールジャパン)となっていれば団結力(信頼・意思統一)で無駄な日本人の血を流すことはなかったのではなかろうか。 

 

 また庄内人で西郷隆盛に接し西郷の遺訓を書き残した「南洲翁遺訓」では、この国を治めるには親指つまり一部の指導者がいればいいという考え方になっている。これは儒教思想から来ていると思われる。

ただその指導者は「天の道」を実践しなければならないという。

 

 

「万民の上に位する者は、わが身を慎み品行を正しくし、驕りを戒めて節倹に勉め、自分の職務に励んで人民の手本となり、人民がその仕事ぶりの苦しさを気の毒に思うようでなければ政治が行き届かないものだ。

 新しい政治ははじまったばかりである。それなのに万民の上に立つものが立派な家に住み、きれいな衣服を着、美しい女を側におき私財をふやそうとしているようでは維新の大理想は実現できない。

 いまような状況では、戊辰の義戦が、まるで私事のために行われたとしかいいようのない結果になっており、天下に対し、戦死者に対して面目が立たぬ」 

 

と、涙ながらに西郷隆盛はこのように言っていたと伝わっている。

 

 

 

 

 

                        ~ 今日はこれまで ~