先日、奈良公園で生活をしている鹿が頭部を斧で力いっぱい切りつけられる出来事があった。

 

そのことについて書かれた「【奈良公園のシカ】を死なせた疑いで男を逮捕...野良猫を虐待した場合と違うのか?」という記事を読んだ。

 

記事には、鹿は愛護動物ではないので、動物愛護法は適応しないと書かれてあり、奈良公園で生活している鹿は、768年頃から手厚く保護され住民から愛護されて共存をしてきたので、天然記念物に指定されたと書かれていた。

 

しかし、「古くから保護されてきた」というのは論点ではなく、考えるべきことは愛護動物に指定されている動物種だけがなぜ、守られるのか?というところで、前のブログ記事「出来事から見えてくる社会の姿」に書いたように、なぜ、野生動物は別の法律が適用されるのか?野生動物の中でも、棲んでいる場所や人間との関係性で扱いが違うのはなぜか?というところが論点ではないだろうか。

 

記事には「動物愛護管理法では愛護動物として、古くから家畜やペットとして普及している動物です」。と書かれているが、その中に入っている牛や馬、豚、めん羊、鶏などをわたしたちは毎日殺傷している。それはいいのだろうか?

 

動物愛護管理法に不備があるのはその名称からもわかる。

 

「愛護」という個々に捉え方が異なる語を使っている。

 

「愛護」とは、広辞苑に「かわいがり保護すること」と書かれている。

 

「かわいがる」は、「かわいく思い大切にあつかう。愛する。いつくしむ。かわゆがる」だが、このようなことは、その捉え方が個々に異なってくるので一貫性がない。

 

ということは、動物愛護管理法の目指すところは何か?という疑問が出てくる。

 

人間以外の動物の虐待などを防止するためにイギリスで1824年に設立されたのは、「動物虐待防止協会」という、名称からもその目的が明確になっている。

 

アメリカには「動物福祉法」、ドイツには「動物保護法」があり、その名称から主旨がわかる。

 

名称については、「動物保護活動における用語の定義」 All Life In Viable Environment (ALIVE)に詳しくわかりやすく書かれている。

 

そして、奈良公園の鹿は768年の古くから人間と共存してきた歴史があり、愛護されてきたということだが、768年というと8世紀になる。

 

8世紀に「愛護」とう概念はあったのだろうか?と思う。日本より、動物擁護活動が活発であり、先進的なイギリスで動物虐待防止協会が設立されたのは、1824年だ。

 

奈良公園の鹿の「保護の歴史」を見てみると、1871年に鹿を「有害獣」として指定し、銃による射殺が行われている。

 

1873年には700頭以上の鹿を収容するが、食糧不足で38頭まで減少。

 

さらに1946年密猟により、約80頭まで減少。

 

これらをたどり、1957年に国の天然記念物に指定される。

 

「愛護」はどこにあるのだろうか・・・?と思う。

 

「保護の歴史」では、鹿を殺したりきずつけたりしてはいけない区域など設定されたり、収容施設が建設されたりしているが、歴史的背景を重ねると、「愛護」という視点からなのかどうかがわからないので、今後調べていこうと思う。

 

古くから奈良公園付近にいた鹿も山で暮らす鹿も、ほぼ同じ扱いを受けていたのではないだろうかと推測する。

 

鹿たちの暮らしに人間の都合が入り込み、奈良公園の鹿は観光資源として、野生で暮らす鹿は「害獣」として、資源として扱い利用されている。そして、社会に差別や排除を色濃く残すことになっている。

 

記事には、奈良公園の鹿と山にいる鹿は違うと書かれているが、鹿を人間がどう扱うかの違いの話で、鹿たち自身(種)に違いはない。

 

その同じ鹿をなぜ、わたしたちは分けて考えるのか?ということを考えていかなければいけないと思う。

 

そして、野生動物をも含む動物を守るという観点から、一貫した法律を整備する必要がある。

 

論点に気をつけていろいろと考えていきたいなと思った。

 

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