今日は奈良公園で暮らす鹿の頭を人間が斧で力いっぱい切りつけたという、おどろくニュースがあった。
鹿を斧で力いっぱい切りつけた男は、「鹿と遊んでいたところ、車に体当たりしてきたので、腹が立ち、斧で鹿の頭を力いっぱい切りつけた」と容疑を認めているという。
まず、なぜ、斧を持っているのか?と疑問に思う。
そして、腹が立ったからと言い、鹿に対しての殺傷行為は許されることではない。
自分にとって気にさわる不愉快な行動をした者に対し、暴力を使うことはあってはいけない。
このようなことをしてしまう男性が存在するということは、この男性だけの問題ではないのではと思う。
人間は社会によって作られる。なので、この出来事は社会のあり方の問題であると同時に、社会を作るわたしたちひとりひとりの問題でもあると思う。
現在、国は「害獣」に指定した野生動物について、暴力を推奨している(鹿や猪を撲滅すると言っている)。
そのような社会では、必然的に暴力が一般に広く根深く浸透し、おぞましい出来事が相次ぐ。
奈良公園で暮らす鹿に殺傷行為を行った男性は逮捕されたが、野生で暮らす鹿は大勢で残虐に殺したい放題だ。そして、殺すと讃称される。
その殺し方は第3者が介入することなく野放しだ(かるい規則はあるようだが、厳守していることはほとんどないのではと、関係者からの話や他の情報などから思う)。
奈良公園の鹿、野生で暮らす鹿、悲しいことに、どちらも人間に都合よく利用されている。
奈良公園の鹿は観光資源として、野生で暮らす鹿殺しは資源として扱われ利用されている。
現在、奈良公園の鹿は、過去にないのでは、と思うほど、健康状態がよくない状況下に置かれている。
それは、鹿たちの体格や毛並み、行動、動作などからわかる。
SANSUPO.COMは、「『奈良のシカ』殺しに地元震撼 『残虐過ぎる』と怒り」という記事で、奈良公園の鹿について「『鹿せんべいをもらえずシカが飢えている』との“デマ”が広まり」と書いているが、わたしは鹿たちの健康状態を危惧している。
鹿たちは、空腹や人間・環境によるストレス、体調不良など、さまざまな苦痛や困難を抱えて生きている。
人間がおもしろおかしく鹿に関わることは不適切な行為だ。
奈良公園で暮らす鹿であれ、野生で暮らす鹿であれ、わたしたちは鹿たちの助けになることを何か行っているだろうか?
現在行われていることは、助ける・保護をするという項目で、鹿やその他の動物を利用して人間の利益になることばかりではないか!
そのようなことをしているうちは当然だが、鹿やその他の動物を真に守ることや助けることはできない。
暴力を認めている社会である以上、人間も含めた他者を尊重することや思いやることなどを人間は学ぶことができない。
奈良公園内の鹿を天然記念物とし、守り、山で暮らす鹿は「害獣」と言い、大虐殺を行っていること自体、おかしな話だ。
利権で物事が動いているので、このようなことがまかり通る。
そのことも含め、わたしたちはこの問題に挑むべきではないだろうか。
殺すことと、守ることは相反する。
そのことについて、目をそむけず、正面から挑み、ここに暮らすすべての者たちのための社会にすべきではないだろうか。
犬や猫の頭部を斧で力いっぱい切りつけると、愛護法違反で逮捕されるが、奈良公園で鹿を殺すと、文化財保護法違反容疑で逮捕されている。
犬も鹿も、わたしたち人間も種が違うというだけで、感覚・感情ある同じ動物であるにもかかわらず、属性で扱いが変わるのはおかしい。
鹿に対しやっていることは残虐で愛護法違反になることだ。
人間との関係によって、別の法律を適応し、保護する動物と殺傷する動物とに分けていることや、鹿たちのように、棲んでいる場所によって、保護したりしなかったりするのは首尾一貫性がない。
すでに、地球上に生きている者すべての存在を考える時代に入っている。
奈良公園の鹿については、鹿たちの生活に人間がこれだけ介入しているので、野生動物と言っていいのか疑問だ。
人間は鹿たちを観光資源として利用するために、奈良公園という場所に餌付けをして依存させ、その場に縛り付けていることを忘れてはいけない。
社会が民主主義を大事にし、教育の場が、人々にとって権利や法律について学ぶ場であり、自分も含め個々の存在を大事にする人間を育てる場であってほしいと思う。
ひとりひとりが安全で安心して暮らせる社会を目指したい。
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