命に対して重い、軽いという発言をよく見聞きします。

そして、そのことについて日々議論されており、命の重さについて理解してもらおうとさまざまな活動が行われています。

そもそも、人も含む生きものの命について、このような議論をされていることに正直、気持ちがざわつきます。

 

生きものの命に大事な命、そうでない命などないからです。

生きものの命は個々のもので、それぞれみんな等しく大事です。

 

しかし、現実は大事な命とそうでない命と区別されています。

人間はそうやって今までから現在にいたり多くの生きものの命を奪い、奪い続けています。

 

人間はなぜ、他者の命に対して区別をし、大事ではない命と判断してしまうのでしょうか。

大事でない存在と言いながら、人間に必要な存在だと言う・・・。

全くもっておかしな話です。

 

人間以外の生きものたちの記事や書籍を読んでいると、「○○の命は大切ではない」「○○は守る存在ではない」など書かれてあります。

このような発言自体、体が硬直してしまうほどの衝撃を受けますが、このような発言が言える社会のあり方に危機感がつのるばかりです。

人間に対しても、相手が傷つき悲しむ発言が多く、その言葉でつらい思いをしている人たちがたくさん存在しています。

 

もし、○○の中が自分だとどう感じますか。

 

この命は大切ではない、だから殺していい。

この種の動物は守る存在ではない。

 

なぜ、このようなことが言えるのでしょうか。

わたしはこのような発言をされる人の話は、どのような人でも真に受けないようにしています。

 

なぜなら、差別、暴力、支配が存在しているからです。

差別からは苦しみし悲しみしかうまれず、種問わずそれぞれが個々にしあわせに生きることから遠くかけ離れています。

 

粗末に扱っていい存在とそうでない存在を人間は勝手に決め、それを相手に押しつけ、強要し、苦しめています。

わたしたち人間はさまざまな知識を豊富に得ているにも関わらず、その知識を活用せずスルーしています。

 

わたしたちの都合ばかりの行動をし、相手のことなどまったく考えていない出来事が多くあります。

その背景にはさまざまなことがあると思いますが、その言葉や行動の「やっていることはどのようなことか」、これが人間を知るのに最もだと思います。

 

どのような理由を付けても、殺害は殺害です。

もっともそうな理由を付けても、暴力は暴力です。

相手を思うようなことを言いつつも、やっていることが支配であれば、それは支配です。

 

そして、このようなことを行うのは出来る相手にしかしません。

 

なぜ、社会にこれほどの差別が存在し、いじめが蔓延しているのか、ひとりひとり真剣に落ち着いて考えることができるといいなと思いますが、現状からそれを今、個々に考えることの難しさを感じています。

 

個々の知識の中での考えや感覚など、すべて正しいとは限らないです。

だからこそ、どれだけ忙しくてもその合間に数分でも自分をみつめ直し考える時間や正しい知識を増やす時間は必要だと思っています。

 

わたしの場合、種問わず相手を苦しめ命を奪う行為、暴力にはNOと言い続ける、という思いがあります。

それは生涯ゆるぐことはないと思っています。

なぜなら、わたしの信念だからです。

信念を持ちつつ、他の自分の考えなどにおかしな点はないかなど見直し、自分の中に自分が納得できる素材が増し確信にいたると思います。

わたしは現実を知り、深く考え、暴力は正当化できることではないと確信しました。

 

この世界で生きる者は、苦しみ悲しみを誰かから強要されることなく、命を奪わることなく暮らす権利があります。

 

もし、自分が○○に入っているどのように感じるのか。

あなたは大事な存在ではない、と言われたらどう感じますか。

あなたの存在は不要だと言われて、命を奪われることになったらどうしますか。

 

人間にとって必要な(大事な)「モラルの柱」は崩してはならないと思っています。

崩してはならないといいますが、わたしたちのモラルの柱は個々に作り育てるものでもあると思っています。

 

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