郡上八幡の街巡り | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

朝は5時に起きた。老人だから早起きなのである。



宿のそばに岩があって、岩の上に神社があった。京都の町屋の階段みたいに急な石段がついていて、危険だという警告と、登らなくてもお参りできる賽銭箱が登り口にあった。



でも登った。


白龍稲荷神社。元々は岸劍神社はこの辺りにあって、その一部だったらしい。岸劍神社は、八幡城のある山の山腹に移り、この神社は商家に委託されてここに残った。だから、なんとこの岩山は個人の所有物なのだとか。



職人町の街並み。



玉井山 蓮生寺


職人町の真ん中あたりにあった寺。織田信長と本願寺の戦いの中で、天台宗から浄土真宗に改宗したそう。



本堂と親鸞聖人像。上人と聖人は共にショウニンと読むが、親鸞さんは僧侶ではないから聖人なんだよね。肉も食ったし嫁もいた。



ドンツキの浄土真宗 長敬寺は、1601年に城主 遠藤慶隆が菩提寺として建立した寺。



本堂と右に親鸞聖人像と左に蓮如上人増。


ちょっと山側に雰囲気のあるお寺が見えたので気持ちはもうそっちへ向いていた。



日蓮宗 清水山 大乗寺


朝倉氏家臣、清水左衛門尉が法華堂を創建したのが始まりで、1603 年に妙覚寺の日奥上人の弟子、日曜日能が大乗寺の寺号と本尊、十界曼荼羅を賜り、尾壺山城の跡地であったこの場所を城主、遠藤慶隆から寄進を受け、妙覚寺の末寺として創建された。



尾壺山城とは、佐竹氏の居城ということらしい。佐竹氏は武田氏と同じく源義光を祖とする源氏の一門であるが、平安時代には常陸を拠点に北関東で最大の勢力を誇っていた。平家に組して領地を失ったが、奥州征伐では頼朝に味方した。


鎌倉時代にあっては、後鳥羽上皇の承久の乱の功績で、美濃に所領を与えられ、一部が美濃に移ったと言われている。



苔むした境内の静かさが良い。右は1872年建立の本堂で、左は1803年建立の鬼子母神堂である。



浄土真宗 浄国寺。工事中だったが、もしかしたらこちらの住職は、クラシックカーのかなりのマニアかと。


昨日急いで山を降った時に、岸劍神社の奥に立派な建物が見えたが時間の関係で立ち寄らなかった。心残りだったので、また城山を登って行った。



秋葉三尺坊悟竹院


1522年開基の曹洞宗の古刹だが、1821年に秋葉総本殿可睡斎より秋葉三尺坊大権現の分身を勧進し、郡上の火防守護所となり、超宗派的に信仰されているお寺だという。


なんと、可睡斎は、郡上にくる前にいた袋井の寺である。


早朝6時に始まり1日4回鳴らす時の鐘は、郡上八幡の名物のひとつで、100年以上に渡ってただの1回も欠けたことがないのだとか。



威徳堂


秋葉三尺坊大権現は戸隠村の生まれで、4歳にして越後蔵王権現に修行に出かけた修験者であるという。26歳で比叡山の千日回峰行を満業し大阿闍梨となった(こちらは天台密教)。そのあとで住まわれたのが蔵王権現堂十二坊の中の三尺坊である。27歳で今度は真言密教不動三昧之法を習得。諸国を行脚し、静岡県春野町秋葉山に留まった。それで現在は遠江天狗の総帥といわれる神仏習合の神となった。



豊川堂は豊川稲荷をお祀りしたお堂。右側には栄豊稲荷。



太子堂。聖徳太子信仰のこのお堂は昭和63年の建立なのだが、これを最近と思ってしまう弁慶であった。



六地蔵堂。並んでいる六地蔵(本来の姿)は、あまり記憶にはないが、小野篁が彫り、それを平清盛が分散させて京都の周りの街道に配置したことで現在も残る六地蔵という地名、駅があるので、なんとなく馴染みを感じる。


書き終わると思ったが無理だ。続く。


ね。