忙しい。忙しいにも程があるというほどではないが、往復6時間近くかかる千葉県内へ週に3回とか通って定時+1時間くらいの仕事をすると、普段の生活まで乱れてしまって疲れが倍増する。
埼玉も千葉も緊急事態宣言区域内なので、これで店が20時に閉まってしまうとなると、コンビニで朝と夜を賄い、昼は外食という、人間らしい生活がまるっきり出来ない。それでもエッセンシャルワーカーとしては、ひたすら出勤しないと仕事にはならないのである。
さて、これは昨年の話である。コロナ以来、都内には月に2回から3回しか行かない。当然、手段はクルマである。
墨田区にある天台宗の寺院で、元三大師を本尊とする。元三大師となれば行かないという理由はない。
都内に急ぎの請求書を届けたあとの昼の時間を利用して(つまり昼はコンビニでパンを買って運転中に食べただけだが)参拝に訪れた。都内とはいえ、下町らしくない外観には少しびっくりする。
糸平とは糸屋平八商店のことで、生糸、洋銀の相場で財を成した田中平八創業の会社で、現在でもその流れを汲む会社は存在している。隆盛を極め人々から天下の糸平と呼ばれた。
だからってそれを自分で石碑にするなよな、と小市民弁慶は思う。
方針だって、骨太だとかって他者が評価するのならいいけど、自ら骨太と名乗るのはちょっと自信過剰過ぎて顔が赤くなるよ。
東都俳風狂句の元祖を標榜した四世川柳が建立したという。狂句とは?とかいろいろ興味も湧くがなんだか良くわからない。もっとも興味を持ったのは、この石碑には米軍機から放たれた機銃掃射の跡があるということだ。
梅若伝説
吉田少将惟房の子として生まれた梅若丸は5歳の時に父を喪い、7歳に時に比叡山延暦寺月林寺に預けられ、彼ほどの稚児はいないと賞賛をうけたが、これを妬んだ東門院の山法師たちに襲われ、山中に迷った。さらに琵琶湖のほとりで人さらいの信夫藤太に東国へと連れ去られ、その途中、隅田川の岸まで来て、ついに病に倒れ捨てられた。そして里人たちの親切な介抱のかいもなく生涯を閉じたのである。その翌年、我が子の行方を探し求めて、狂女に身をやっした母親が隅田川に到り、渡し守から梅若丸の死を知らされたのは、我が子、梅若丸の一周忌のことであった。
この伝説は江戸時代に、能、歌舞伎、浄瑠璃と様々な分野で上演され、隅田川物として庶民に親しまれた。
寺務所に入ってこの木を叩くと御住職が現れたので、御朱印をお願いした。
弁慶は元三大師専用の御朱印帳をもっているので、それに書いてもらったところ、「全国から集めているのですね。まだまだ沢山ありますから頑張って」とおっしゃられた。
さて、梅若伝説についての参考文献を読もうと検索した時のこと、埼玉県の春日部こそが梅若伝説の舞台であるという文献に(将門の首塚に続き)またもやぶち当たった。
幸手の将門の首塚は通勤経路にあったが、こちらは勤務地春日部とはいえ、ちょっと遠いので、ずいぶん経ってからの訪問となった。