続 自粛生活の続き | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

深夜まで飲んでいたので、起きたのは8時ごろ。朝食はサービスなのだが、食欲もわかない。
 
とりあえずチェックアウトして荷物だけを預け、目的もなく丸山公園へと向かってみる。
 
 

丸山公園の桜はまだちょっと早かったが、それなりに人出があり、留まることなく移動する。
 
そういえば、公園からは八坂神社への道を進むと、山鉾を格納してあるんじゃないかなという倉庫がありました。書いているうちにいろいろ思い出しますね。調べたらまさにそうでした。
 
さて、八坂神社に到着すると、疫病退散祈願の為に茅ノ輪が設置されていて、茅ノ輪くぐりをする人の列があった。並ばれているので、ちょっと写真は撮りにくい。ニュースでもやっていたから御存じの方も多いと思う。茅の輪はふつう6月30日の名越の祓いに向けて設置されるのだが、今年は新型コロナウイルス退散を祈願するために設置された。
 
「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」
 
旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたいいます。それが現在の茅の輪くぐりへとつながり、3周めに蘇民将来という言葉を唱えるのです。(茅の輪くぐりは左周り、右周り、左周りと3回輪をくぐりますが、それぞれに唱える言葉が違います。)
 
ちなみに武塔神の正体は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)で、まさに八坂神社の御神体である。
 
 
八坂神社から下って、撮影禁止の石塀小路を抜ける。石塀小路の両側にある宿も風情があって良い感じだ。高台寺に来ると桜が満開だという看板が出ていたので、拝観することにした。
 
 
 
高台寺から見える大雲院祇園閣
 
大雲院は通称 銅閣寺。信長の子、信忠の菩提を弔う為に創建され、信長の墓所の一つがあるほか、石川五右衛門の墓所がある。以前特別拝観で祇園閣に登ったことがあるが、景色は良いのだが撮影が許されていないのが残念だ。
 
 
 
高台寺 方丈庭園のしだれ桜
 
方丈内部からゆっくり見ることが出来るが、写真の構図としては背景が問題で、この角度からが番良いように感じた。
 
 

高台寺天満宮
 
高台寺の鎮守社で社殿をぐるっと囲んでマニ車があります。マニ車は仏具なのに天満宮にあるというのが面白いです。隣に売店があり、御朱印はその売店で頂けます。今回は並んでない場合だけ御朱印を貰うことにしました。
 
祇園に戻ってアンティークショップを覗くつもりだったが、まだ開店していなかったのでホテルに戻って預けた荷物を受けだし、三条駅へと向かう。比叡山に行ってみようかなと思ったのです。
 
先斗町を抜けていくと、馴染みの宿の引き戸が開いて大女将と女将さんが出てきた。(満室だった宿です。)偶然お会いするのはこれで2度目で、女将さんもびっくりされていた。これから帰るところですと話すと、御所の桜が満開なので良かったら見て行ってくださいとのことだった。
 
ということで、荷物が重いけれど御所を目指します(爆)。
 
 
 
高瀬川 一之舟入
 
舟入とは高瀬舟の荷を積み卸したり方向を転換したり場所です。右奥側が高瀬川を開削した角倉了以の邸宅跡です。
 
高瀬川を見るとすごく水深が浅いことがわかります。水深30cmだとか。運河として使われた川なので、昔はもっと水深があったのだろうと勝手に思っていましたが、当時から水深が浅く、そこで船底が平らな高瀬舟を用い、船には船頭一人が乗りそれを岸から曳き子が引いたのだそうです。左に見えるのは桜なのですが、ちょっとまだ早いようです。
 
 

廬山寺 元三大師堂
 
御所の桜は近衛邸跡あたりと聞いたので、そこは同志社大学側だから寺町通りを上がって回り込む感じで向かうと、当然だが廬山寺がある。今年の初詣で元三大師のおみくじを引いたら、生死を彷徨ったら十中八九死ぬという結果だったと前に書いたことがあったと思うが、コロナで洒落にならない状況になってきたので、元三大師をことあるごとにお参りしている。
 
 
 
廬山寺は天台圓淨宗の単立寺院で、創建は元三大師。明治維新までは宮中の仏事を司る御黒戸四箇院の一つであったが、廃仏毀釈により天台宗に預けられたのち独立。場所は当初は船岡山の南麓にあったものを秀吉の命により現在の場所、すなわち紫式部邸宅跡へと移った。
 
 
 
御所の枝垂桜
 
満開でしたがかなりの賑わいだったので、早々に立ち去る。ようやく空腹感を感じてきたので、河原町で昼食としてラーメンを食べ、地下鉄で駐車場へと向かい、比叡山のお膝元、坂本に向かうことにした。
 
 
それで、とりあえず無料と聞いていた日吉大社の駐車場へ向かったら、駐車料金は無料だったが境内に入る参拝料が300円必要だった(爆)。今更引き返せないので、参拝料を支払いそのまま駐車場に入ったが、すぐ徒歩で境内を出て最初の目的地に向かう。
 
 

 

求法寺 走井大師堂

 

日吉大社の参道入口にある天台宗の寺院であり本尊は元三大師像である。

 

 

 


名前の由来は、元三大師良源が修行を決意した場所だからという。比叡山焼き討ちによって全焼し、その後再建されたが再び焼失した。現在は、走井大師堂のみとなっている。御朱印は書置のみ。

 

 

 

 


時間的に比叡山は無理だと判断して日吉大社から山の辺の道を辿る。

 

 

 

 


八講堂千体地蔵

 

この場所には昔八講堂があったそうで、ここから紅染寺跡にかけて無数の地蔵尊が散在している。紅染寺は最澄の父親の住居で、仏法に帰依した最澄の父親は後にそこを寺としたと云います。

 

 
 
天台真盛宗総本山 西教寺

 

今年の大河の主人公 明智光秀の菩提寺である。この総門は延暦寺焼き討ちにより被害を受けた西教寺を復興するために、光秀により坂本城から移築された。

 

 

 

山門をくぐると西教寺にはいくつもの塔頭があった。この徳乗坊の門は明治時代のものだが有形文化財である。

 

 

開基は聖徳太子と伝わるが室町時代に宗祖真盛が入寺してから栄えた。庭園が有名である。
 
これは書院庭園は明治初期の作。
 
 
 
裏書院庭園は平成元年に宗祖真盛上人五百回忌大法会記念事業で造園された。
 
さてさて、一番重要な小堀遠州作の庭園の写真はない(爆)なぜだ!
 
 

明智光秀公とその一族の墓
 
 
本堂は江戸時代、その背後の客殿は桃山時代、伏見城にあった旧殿を移築したものとのこと。
 
 
 
天台真盛宗の宗祖 真盛上人の幼少期のお姿 幼名宝珠丸。
 
 

 
日吉大社に戻り東本宮にお参りして帰路に着いたは16時半。流石に眠くなって恵那峡と横川で2回ほど仮眠して、帰り着いたのは1時半だった。
 
ね。