こんな魔物にひっかかるという私も単純な女である。今さら考えても戻ることはできないし、昔に戻ったところで何にも変わらないと思う自分が半ば人生を諦めているのかもしれない。
こんな女をおばさんというのかもしれない。自分ではおばさんにはなりたくないと思っていたのだが、そんな考えをしている自分はまぎれもなくおばさんという種族の一員になっている。
これ以上のおばさんという種族にはなりたくないのだが、結局は種族の長クラスになって死んでいくのかと思うと悲しい気持ちになった。
そんなことを考えながら歩いていると、小さな横道から声をかけられた「いい格好しているねぇ」よく聞いた声である。
声の聞こえた方に目をやると、艶子さんである。
薄暗い道から声をかけられたので、のぞきこむように見ると目だけがギョロッとしてまるで砂かけハバアのように見えた。知らない人なら驚いて腰を抜かすのではないだろうか。それよりも、このような時に嫌な人に会ってしまった。しかし、まてよ、今日の艶子さんの息子のことを聞くいいチャンスではないかと思い「艶子さん、今日、息子さんが来たわよ」と言うと「行ったんだってね、聞いたよ」と坦々と答えている。
「それじゃあ、会えたんですね」と言うと「帰ってくるのが遅くなってな」とあくまで坦々と話している。
「息子さんがいたなんて知らなかったから」と聞くと「いようがいまいが関係ないだろ、一人息子なんだ、ちょっと用事で戻ってきたのだ」というのだ。ちょっと用事、何の用事だ。息子がいるということも知らなかったし、戻るということは昔は艶子さんと一緒に住んでいたのだろうか。
「息子はもう帰ったよ」と聞いてもいないのに話してきた。「大阪に住んでいるんだ」それも別に聞いてはいない。
何か私に話したいのかもしれないが、今は居酒屋に向かっている途中なのだ。
「ごめんなさい、急いでいくところがあるからまた今度」と言いながら足早にその場を去ろうとしたのだが、艶子さんは許さない。「ちょっと待ちな」と脅迫的な態度になっている。
「どこに行くのかは知らないけど、明日いるかね」と明日、私が家にいることを確認しようとしている。
咄嗟に口から出た言葉は「明日、知り合いの人の葬儀で朝からいないの」と答えてしまった。
そんな葬儀なんてものは一切ないのである。とにかく、会いたくない人なのでそう言ってしまった。
「そうかね、だんなも息子も一緒に行くのかね」聞かれて、しまったと思った、だんなのことはどうでもいいのだが息子のことを忘れていた。何と答えよう何も答える必要はないのであるが困った「息子が学校に行ってから出かけて、夕方までは戻るから大丈夫なんです」とまた、咄嗟に答えた。「明日は土曜日だよ」またまた、しまった。土曜日ということも忘れていた。学校は休みなのだ。「あっ、そうですよね、勘違いしていました」と言うと「夕方には戻るというのなら5時くらいに行くから」と一言言って早足に歩いていってしまった。
こちらの都合などは全く関係ないのだ。
やっと開放された。明日のことは明日考えればいいのだ。今は居酒屋で美味しい魚を食べることしか頭にない。
腕時計を見ると、7時15分になっていた。ここからは歩いてほんの2,3分だと思う。
駅について、教えられた方向に歩いてみると、大きな看板が見えた。魚香と赤い文字に黄色の下地の店の看板である。1階の店であった。引き戸のドアを開けると、4人掛けのテーブルが目に飛び込んできたと同時に大きな声で何人かの店員が「いらっしゃいませっ」と元気の良い声である。さすが、居酒屋という感じである。
お一人ですかと声をかけられたが、何人か来ているはずだと告げると、男性店員はメモのようなものを見て「田口さんか大場さんですか」と聞いてきた。田口ですと言うと、こちらへどうぞと奥のほうへ案内してくれた。細い通路の両側には4人から8人は座れるテーブルがいくつか並んでいた。その奥にはカウンターが見える。
カウンターには10人くらいは座れそうだ。
店員のてきぱきとした動きに何か清清しい感じがした。
突き当たりのカウンターの横をすり抜けると個室らしい、個室と言っても木の格子で仕切られているだけなのだが何か懐かしい感覚になる作りであった。
店員が、こちらです。と手で案内してくれたところには、泉さんと他に3人が座ってこちらを見て手招きしている。
勿論、泉さんは知っているが、他の3人も息子のクラスのお母さんのようだ。ようだというのは、保護者会で何度か見たような気がするという程度である。
少しつめて座るならば、8人は座れるという感じの部屋である。私は、泉さんの横に腰掛けた。
椅子であったことで少しほっとしたのだ。スラックスの中に押し込んだ下腹の肉が椅子なら何とかなりそうという気持で座ったのだ。座敷なら腹がきつくて長い時間なら大きな苦痛になるかもしれない。
だから椅子なのでほっとしたのであった。
テーブルの上には焼酎のボトルと、6個の小鉢料理が並んでいる。
「遅くなって、ごめんなさい」と皆に挨拶すると「後一人来るから・・・」と乾杯はしないで待っているというのだ。ちらっと腕時計を見ると7時半になろうとしている。小鉢料理というよりも付け出しが並んでいただけであった。中くらいの小鉢に野菜の盛り付けが乗っていた。「こちらが、祐樹くんのお母さんの田口さん」と泉さんが紹介してくれた。
他の3人はこの人が祐樹くんのお母さんなのかという顔で見ている。「祐樹の母です。いつも祐樹がお世話になっています」
と、3人も順次名前を告げたので誰が誰のお母さんなのかということが理解できた。というよりも、祐樹のクラスの子は祐樹の仲のよい人しか知らないから、この中には祐樹の仲のよい友達のお母さんはいないようだ。
ほどなく、もう一人のお母さんが到着。みんなで挨拶をして乾杯となったのだ。
店員を呼び、いくつかの料理を頼んで、学校のことや、子供のこと、さらには主人の悪口などで盛り上がっていったのである。お酒も入っているので、皆、気が緩んでいるのであろうか、普段、保護者会では見ることのできない
別の顔を見たようである。女6人になれば、かしましいことかしましいこと。
料理も魚専門だけあって、とても美味しかった。居酒屋でもこれだけ新鮮な魚を食べることができるのは一流の店に行く必要はないのだと思った。
2時間が過ぎようとしていた時に、2人のお母さんが、そろそろ帰らないと主人が煩いからと席を後にした。
残る4人で、30分も話していたであろうか。2人のお母さんも、そろそろということで帰られた。
残ったのは私と泉さんだけになったのである。10時になっていた。料金はセット料金ということで一人3千円のみという。少し安心した。私も明日のことがあるので、そろそろ帰ろうかとしていた時に「田口さんは、まだ、時間いいでしょ」と誘ってくるのだ。「そろそろ帰ろうかと思っていたの、でも、何か」と聞き返すと、もう一軒行かないかと言うのである。予算的には5千円は考えていたから、もう一軒くらいはいいかなと思い「どこに行くの」
と聞いたところ「私の知っているスナックがあるから歌でも少し歌わない」と言うのだ。
歌、つまり、カラオケなのか。カラオケというと何年も歌った記憶がない。決して歌はヘタだとは思わない。というのは、OLをしていた頃によくカラオケに行ったのだが、回りの友人に言わせると結構うまいということのようだ。
声質が山口百恵に似ているので、もっぱら百恵の歌だけなのだが。以外と評判がいいのである。
「お金かかる」と恐る恐る聞いてみると「2千円もあればいいと思うよ。ボトルもキープしているから」
というので、あまり遅くならなければという約束で店を後にした。ここからがトラブルの始まりなのだ。
今夜のお母さんたちの会に誘ってもらったことで、泉さんとも急に親しくなった気がしている。
それに、他のお母さんとも仲良しになれたことで、次の保護者会があっても何か仲間が増えたことで気が楽になると思った。こういう会に出るということは、人と人との付き合いにおいて大事なのだろう。越してきて2年がたつが初めてのことであった。とても嬉しい気分で泉さんとおしゃべりをしながら、次の店へ向かったのだ。