お別れを考える | さかもとサンのブログ

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ウエイトリフティングやパワーリフティングやベンチプレスやボクシングや筋トレフィットネスやら
なんかいろいろをそれなりの期間やっている人が思っていることなどを記事にしているブログです。

今日は2か月ぶりに会う仲間たちと一緒に遊ぶ日でした。

計3名なのですが、うち一人が早めに上がって私ともう一人となりまして。

私も今年はお別れを体験したのですが、もう一人のその人も昨年にお別れを体験していて、そのことについてずっと話していました。

と言うか前回会った時もその話をしていたのですが、もう一人の人が割と暗い話は茶化すのでそんなにガッツリは話していないですが、今回はその人が居なかったので割としっかり話した感じです。

私の方はなんだかんだお別れと言ってもある意味一番良いお別れが出来たと思ったと同時に、今日話をしていたその人はおそらくお別れしきれていないのか、そんな感じでした。

専ら話を聞く側でしたが、でも私もなんだかんだ返答すると同じような感じではあったようです。

一番怖いのが怖いのが「いないことに慣れてしまうこと」

その人も言っていたのですが「忘れてしまっても良いのだろうか」という葛藤はあるようです。

でも人間時間が経てばなんだかんだ記憶は薄れていき、忘れている時間も長くなっていき、そして忘れていくものです。

そうやっておそらくは心を守っているんだろうけど、でも私も今は忘れること、いないことに慣れてしまうことに悲しさを感じています。

だから葬儀、49日、1周忌などがあり、それはきっと忘れないように、そういう方面の自分の心を守るためのイベントなのだと思えてきました。

その時に話したのですが、後から考えればもっと出来ることはあったはずなのですし、もっと長く一緒にいられたのかも知れない。

でもそれは今になってから思うことで、おそらくその時はその時やったことが精一杯出来ることであり、お互いにでしたが、その時の状況で最大限の出来ることをしたのだと思っています。

自分だけが条件じゃないですから、仕事があったり他の用事があったり、他の人の影響で最善手は打てないなんてことは良くある話、そう考えると最善手は無理だったかもしれないけど、その時の一番良い手を打てたのだと思います。

まあなんというかなかなかこういう心境って人に話せないもの、まして他人にはなかなか話しにくいですが、私もその人もお互いに身内以外に話せたことで、少しは心の負担も減ったのではないかなと思います。

というか私の感覚から言えば「やっと人に話せるまでになった」と言うことでしょうか。

別れて間もなくは、言葉にするだけで涙があふれてしまい喋れなかったので、それがまだ少しじわっと目が熱くなりますがそれでも話すことが出来るようになったのです。

ホント夫も同じく大事なものとのお別れだったのですが夫と思い出を話そうとしても話せなかったですから。

たまたまなんだろうけど、私も同じような体験をしたので話を聞くことが出来たのだと思います。

それで相手の心が少し安らげば良いと思います。

結局時間をかけて心の平穏を取り戻していくことがセオリーではありますけどね。

不思議な日でした。

まあそれ以外ではしっかり遊びましたけどね。