ドーピングに手を出してしまう人の心理としては
「誰よりも勝ちたい、あいつに勝ちたい、一番になりたい」
という気持ちと
「ライバルに勝てない、同じようにやっているのに差が開いていくばかりだ、1番になれない」
という焦りがあり、そこで
「まあしょうがないか、自分の出来る範囲でここまでだからここで満足しよう」
と言う心を持てずに
「ならばライバルがやっていないことをやろう、勝つために手段は選んでられない、自分にも勝機があって良いはずだ」
とう決心をしてという流れがあるのではないかと思います。
(今回はそうじゃないケースの話ではないってことで)
こんな人がそれではどうやったらドーピングをせずに自分の限界を受け入れることが出来るのかというところですが、スポーツメンタルケアでそれが出来ればドーピング問題で悩む必要はないでしょう。
メンタルケアや考え方の切り替えができない人達が「ドーピング」に手を出すのではないかと思います。
実際はドーピングをしたらしたで、その人たちの中での才能や実力と言うものの差が出てきてしまうものですが、そこまで考えが至らないというよりは
「ナチュラルのふりをしてばれなければ一番になれる」
という考えになることもあるため、それでアンチドーピング派が腹を立てている状態が起こっているのだと思います。
実際にバレなければライバルに勝てるし、あいつがアンチドーピング派なら勝てるし、一番にもなれる現実があります。
例えバレたとしてももしかしたら「ライバルに勝てた」という満足感で「ドーピングをやって勝つこと」への罪悪感などないのかも知れません。
この世の中、ドーピングで体を強化出来るということが知られていなければ、ドーピングなどせずに皆必死にトレーニングをして、その中でシンプルに順位が決まっていくでしょう。
そんな中ものすごく努力をして、死ぬほど努力をして、何をやっても勝てない、勝つための手段がないのならば、嫌でも諦めるしかありません、希望がないのですから。
或いは1位の人が出場できないような状態(犯罪で何かするなど)にするとかそんな手段に出るかも知れません。
話はちょっと反れますが、犯罪と犯罪ではない行為(ドーピング)とどちらがマシかと言われると世の中的には後者でしょう。
そういう意味でドーピングは凶悪な犯罪の抑止になっているのかも知れません。
閑話休題。
強制的に諦める状況が出来るのは、努力出来る限界がそこまでだからで、それ以上手の打ちようがないからです。
でも現実はその先に「ドーピング」という手段が存在するのです。
ナチュラルの限界をドーピングは超えることが出来るのです。
さて、今一度ちょっとだけ前の話を思い出しましょう。
強制的に諦めぜるを得ない状況があれば、希望もなにもないですがそれ以上なにもやりようがないし、諦めるしかないでしょう。
納得は出来ないかも知れないですが、現実として「どうやっても無理」を突き付けられるため諦めざるを得ないのです。
だったら、ドーピング禁止という制限をなくせば、限界までドーピングをして、それでも才能が開花できなかった場合に否応なしに
「まあしょうがないか、自分の出来る範囲でここまでだからここで満足しよう(しないけど望みはない)」
という状況を確実に作れるのです。
ドーピングをしても勝てないのだからこれ以上手段がない、何をやってもダメなんだ、という諦めの精神になるか、最終手段として犯罪に走るか、なのだと思います。
世の中には、いくら頑張ってもライバルに勝てない人、1位になれない人はたくさんいて、その中にはその事実を受け入れられない人がたくさんいます。
受け入れられない人達への救済というか心の持ち方のトレーニングも今の時代はあるのですが、それでも最終的にはその人の価値観や生き方、性質によるところもある、まして勝つことや1位になる事が絶対と言われるスポーツの世界で、自分が勝てない1位になれないことを受け入れることは非常に難しいのだと思います。
スポーツの世界、という見方で言えばドーピングをなくしたいのかも知れない。
しかし個人の心を考えた時に、ドーピングをなくすことが良いことなのかどうかは分かりません。
ズルはいけないとは言うけれども、ドーピング以外のルールを利用してズルをして勝つことは認められたり「それも実力の内」という評価の中、何故「バレないドーピングというズルをして勝つのも実力の内」が評価されないのか、これもアンチドーピングが掲げるドーピングがいけない理由に対する反証です。
ズルがいけないのならばすべてのズルに対してドーピングと同じように罰を与えるべきなのではないか、それが筋の通った「フェアプレイ」なのではないかと思うのです。
ドーピングとその他ルール違反のズルに対する罪の重さの違いをきちんと筋の通った形で説明している人がどこかにいれば良いですが、書籍を読む限りは論理的、理論的に説明しているものはないようです。
そのような非論理的な現実も、ドーピングをする人たちを止められない理由のひとつではないでしょうか。
話がズレていっているので戻します。
ドーピングを禁止するのであれば好きにすれば良いと思います。
所詮、スポーツと言う狭い世界での話ですから。
しかし、ドーピングを禁止するにあたり、今回話したような人たちに対する救済はあるのでしょうか。
逆にドーピングを禁止しているからこそ、救済できないのではないかと思います。
だったらドーピングを解禁して、限界まで挑めるようにした方が、その人たちの心は救われるのかも知れません、楽になるのかも知れません。
アンチドーピングの掲げる内容の反証のもう一つの話として、ドーピング解禁して誰でも好きなように使えるようにすればズルも存在しなくなるし、公平性もフェアプレイも実現可能なのではないか、という見方もあります。
ドーピング以外の過酷なトレーニングや精神論などは比較的自由に行える環境での練習で大会に出て勝つことに価値があって、ドーピングで勝つことに価値がないのでしょう。
いや、価値があるないは他人からの評価に過ぎないのかも知れません。
ドーピングを行っている当人からすれば、ドーピングして勝つことにも価値はあるのかも知れません。
ドーピングしないで勝つことに価値を付けているのは実は愚かなのかも知れないですね。