努力ってなに | さかもとサンのブログ

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なんかいろいろをそれなりの期間やっている人が思っていることなどを記事にしているブログです。

何故か最近X(twetter)でドーピングする人をダメを言う人が増えてきました。

この手の発言でいつも思うのが

ドーピングしないで努力している人に対して冒涜だ

的な感じですかね。
これ、ドーピングしている人の角度で考えてみると、全く同じような仕組みの発言が出来るのを気づているのかな、という気がします。つまり

ドーピングという努力している人に対して冒涜だ

ドーピングを否定する人たちの潜在的な意識の中に「ドーピングすることは狡いものだ」という前提があるから「ドーピングは努力ではない」という結論になるんですかね。

そもそも「狡さ」を伴う行為は「努力してない」と言えるのかというところを考えなければならないのではないかと思うのですが。

例えば格闘技での「狡さ」は戦略として成立することが多々あります。

自分の戦い方に上手く「狡さ」を組み込むことは「努力」をしなくとも出来ることなのでしょうか。

いや、その狡さを自分の戦い方に落とし込む行為自体は「努力」が必要です。

そう考えると狡い行為は必ずしも「努力していないことである」とは言えないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。

つまりドーピングすることは努力のベクトルの方向が違うだけで、努力をしていることには違いないということではないのかと思いますがいかがでしょうか。

まああれです。

どちらも努力をしているなら後は努力の内容についてああだこうだ言う、と言うか努力の内容に対して言及しているとうことになるのかなという感じですかね。

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論理的にはアンチドーピングの方が不利、というかこの件についてはいろんな書籍を読みましたが、アンチドーピングがどうにかして「ドーピングは悪」と完全決着させたいというのが実際のところですかね。

つまり事実を確定させるための順序の問題です。

一般的にはいろんな統計データを集めたり、いろんな人がいろんな角度から検証したり、計算したり推測したり、学術的に、科学的に裏付けをしっかり作って、それこそがエビデンスをしっかりと築き上げた上で「結論」を出す形です。

これを「A→Bである」とします。

しかしアンチドーピングに関しては「結論」が先のような感じがします。

「ドーピングは悪である」

この結論ありきで、この結論を維持するために統計データを集めたり、いろんな人がいろんな角度から検証したり…つまりエビデンスを築き上げようとしている形ですね。

これを「B→Aである」をしましょう。

割とですが、一般的には「A→BならばB→Aである」が「真」であると誤解されることもあります。

しかし論理学的にはA→Bであるが成立しても、B→Aは成立しないことも普通にあります。

もちろん成立することもありますが「成立しないこともある」も非常に重要です。

アンチドーピングは、この論理学の

A→BならはB→Aである

の「誤解のされやすさ」を利用して、結論を「真」であるように見せているのば否めないのではないかと思います。

実は「A→BならはB→Aである」は「偽」になることもあるということを隠している、というか
敢えて「偽」のケースを出さないで誘導している感じですかね。

ドーピングが原因で早死にする人の話は良く聞きますよね。

でもドーピングしても早死にしなかった人の話って聞いたことありますか。

ドーピングをしても早死にしなかったケースも必ずあります、もしかしたら健康になったというケースもあるかも知れません。

でもこれらの話をアンチドーピングの人達から聞いたことありますか?

エビデンスを語るなら、あらゆる可能性を探るべきですし、データを集めるべきです。

でもアンチドーピングを唱える人たちは何故、ドーピングの良かった点を言わないのでしょうか。

そりゃね、それを言ったら自分たちの主張が不利になるからです。

「ドーピングって必ずしも悪い訳ではないんじゃない?」って気づかれたら困るのかも知れません。

人間、自分にとって都合の悪いことは言わないに越したことはないですからね。

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放送大学の「問題解決」の授業で、いくつかグループを作って自分たちでテーマを決めて、それについてどうすれば解決できるのかを模造紙にまとめて発表する、というのがありました。

で、テーマの内容こそは伏せておきますが、とあるグループのテーマについての発表の時に私が

「メリットばかり挙げられていますが、デメリットはないのですか?」

といくつかデメリットを出したらそのグループの人達が非常に困っていたのと、その後の反省会で「デメリットと言われた時にまとめていなかったことに気付いてそれも必要だと思った」と言っていたし、先生もそれについては肯定していたので、自分たちにとって不都合な意見も、理に適っているのであればきちんとリストアップして、考えていかなければならないというのは必要な事みたいですけどね。

ちなみに、私たちのグループももちろん意見されましたけどね、まあ授業ですし完璧って訳ではなかったし、そういう意見はもちろんあるな、と思いましたね。

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話は戻って・・・

努力ってなんだろ~って感じですかね。しらんけど。