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人生を取り戻すブログ

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   フォークサイコロジーという概念。

  このあいだ、AMAZONからのメールで、『意味の復権〔新装版〕フォークサイコロジーに向けて  J.Bruner  岡本夏木/中渡一美/吉村啓子[訳]』

  という本の案内が来ていたから、さっそく購入してみた。

  以前から、Brunerの書籍は読んでみたいと思っていたのだが、なにしろ中古でもかなり高額でも手が出せない。

  だから飛びついて買ってしまったのだが、やはり復刊されるだけあってナラティブにハマっている私にとっては期待どおりの内容だった。

  ところどころに関連した論文が引用されていて、学習不足な私からは理解しづらいところもあったが、流れはつかめたと思う。

  ところで、フォークサイコロジーだが、以前、マイケル・ホワイトの著書で引用されているのを見かけたことがあるが、そのときはぼんやりとしか捉えてなかった。

  この書での説明は、「民族心理学」と呼ぶべきとして、「何が人間をそのようにふるまわせるのかということを、文化によって説明する。」と書いている。そして「科学的パラダイムに置き換えられない理由として志向的状態ー信念、欲求、意図、社会的関与ーの本質や原因や結果を扱う。 」とある。

  これだけでも、刺激的で興味深いのだが、そのあとの章「意味への参入」での「意味へのレディネス」の部分は私にとって特に衝撃的だった。
  以前、言語獲得に興味を持ってチョムスキーを読んだが、いまいちしっくりこずにもんもんとしていた。ところがこちらはとてもしっくり来る!(自分の感覚に近いのだろう)
  

  そしてこの“しっくりくる感じ”が物語の力なのかもしれない。

  もっと早くにこの本に出会っていれば!
と後悔しても仕方がない。

  この出会いが最高のタイミングだったのだ。恐らくもっと早くに出会っていても理解できずに無視していたかもしれない。

  カバーのそでの部分に「ブルーナーが21世紀への希望を〈意味の復権〉に託した」と書いてあった。

  まさしく私にとって、希望だと思った。

  「規格化された判断」からの解放へのヒントになると思う。

  希望を繋げていきたいし、それが私の役目であると思う。
  
  その他にも刺激的なパートがあるが、それはまた次回書こうと思う。

 
  ここまで読んでくださりありがとうございます。
  

  

  

   
  今日は久しぶりにK.J.ガーゲンのリレーショナル・リーディング(邦題:ダイアローグマネジメント)を読んで、刺激をうけた内容を少し。


  三つのシナリオ


  ⑴  生成のシナリオ

  ⑵  継続のシナリオ

  ⑶  退化のシナリオ

  ガーゲンはコミュニケーションの慣習的なパターンを関係のシナリオと定義して、上記3つに区別した。

「生成」のシナリオでは、対話の参加者両方が、お互いの貢献を増築していく。
「会話がどこか新たなところに行く」とも表現している。創造性があり、わくわくして、学びがある。

「維持」のシナリオは日常の挨拶や世話話のようなものだ。過小評価されがちだが、組織の接着剤のようなものだと言っている。

そして「退化」のシナリオは組織文化にとってもっとも破壊的なシナリオだ。組織を敵意、沈黙、関係断絶へと向かわせる。


そして、「それが問題となるのは、その組織によくあるシナリオが、あまりにも当たり前のことになってしまったときだ。こうなると「他にも方法がある」とは考えられなくなるからだ。」という。


 私も長い間、組織の中で働いてきてこの「退化」のシナリオにはよく遭遇した。
 自ら演じたこともある。
  売り言葉に買い言葉、批判合戦、陰口悪口など。重箱の隅をつつくような発言が多くなり、うかうかしてるとダメ人間の烙印を押されてしまう。
  一度マイナスのレッテルを貼られると、なかなか剥がすことができないため、うけた批判はそのつど打ち消さないといけない。
  でないとあとあと職場で生きづらくなる。
  
  職場は負のレッテル貼りあい合戦になり、数が有利なほうが勝ち組の称号を得られるのだ。

  誰もが経験あると思うが、いちいち批判を打ち消していくことがどれだけ労力を削がれるか。はっきり言ってしんどい。
  挙げ句の果てに、「言い訳するな!」「それは自己正当化だ!」などと言われようものなら、関係修復はいよいよ困難だ。

  私はこの「言い訳」フレーズはよっぽどのことでないと使ってはいけないと思う。
  とくに上司という立場では。

  これは、「異議申し立てをするな!」という言外の意味を含んでいる。
  「つべこべ言わずに俺から負の烙印を押されろ!」
  ということだ。
  
  少し話はそれたが、つまり「退化」のシナリオは生産性を低下させる。勝ち組の烙印を押されたものが優秀かどうかはわからない。

  少々社内政治に長けてるだけかもしれないのだ。

  組織を活性化させるためには、全員参加が望ましい。そのためには人の話を聞くことだ。言葉の使い方は悪くなるけれども、さっきの話と対比させて「肯定的なレッテル」を貼るようにすることだ。

  「褒める」というのもこれに近いと思う。

  組織の中で、「退化」のシナリオが演じられるのはどんなときだろうか。

  リーダーはそのとき「生成」のシナリオに転換するために何ができるだろうか。

  生き残りの為に、他者を排除することはいずれ自らの首を絞めることになる。

  組織の在り方をもう一度考えなおすときかもしれない。
  
  
  
  

  
  また、痛ましい事件が起きた。

  相模原での19人刺殺事件。

  容疑者は刺殺した人たちのことを

  「生きるに値しない命」

  と言っていたそうだが、

  そんな命が果たしてあるのだろうか。

  容疑者はどこからそのような考えを借りてきたのだろうか。

  ニュースによれば、ヒトラー関連の書物は見つかっていないそうだ。

  そして彼はその考えを実行することで何を手に入れようとしていたのか。

  この社会に健常者-障碍者などの境界線を引く権利を持っているのは誰なのか。

  その権利をもつに至った根拠はなんなのか。

  境界線を引くことで、得をしているのは誰か。

  それによって追いやられているのは誰なのか。

  この事件は今の社会の問題点をよく表していると思う。

  ある規格に当てはめて、規格外は排除される社会。(ほんとうに規格にはまっているかどうかすらわからないのだが…)

  本来、この地球の資源は誰のものでもない。

  しかし、長い時間をかけてあたかも境界があるかのように線が引かれてきた。

  資源を奪い合って、争ってきた結果だ。

  それは個人の間でも競争という名のお金の奪い合いが起こっている。

  競争をすることが悪いわけではない。

  しかし様々な問題を引き起こすような競争はいかがなものか。

  これだけ問題を引き起こすやり方が果たして最善の方法なのだろうか。

  しかも、これからも同じやり方を繰り返す明確な理由はない。

  力の強いものだけが生き残る社会を作る理由はないのだ。

  しかも、たとえそのような社会を作ろうとしても、うまく行くはずがない。

  今までにそうなったことは一度もないし、現に今、そんな兆しもない。

  容疑者は「障碍者は不幸を作ることしかできない」と言っていたという。

  ほんとうにそうだろうか。

  むしろ不幸を作り出しているのは、境界線を引こうとしている人たちなのではないだろうか。

  決まった答えはどこにもない。

  まずすることは真剣にこれからの社会のことを、全員で話し合うことではないだろうか。