毎週月曜日に生放送を担当している
エフエム西東京「Pop'nタワー♪」の中で、
2018年8月に4週にわたりお届けした
平和学習企画『あかねーねが行く、祈りの旅』
私が【戦争】を描いた作品の勉強のため
現地へ行き、見て・聴いて・感じたことを
レポートしたこのコーナーの原稿を
公開していきます。
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今日は、太平洋戦争がはじまった場所、
ハワイ・パールハーバー編をお届けします。
2018年8月20日(月)放送
平和学習企画「あかねーねが行く、祈りの旅」
〜ハワイ・パールハーバー編〜
ワイキキからバスに乗って1時間20分ほどで、
パールハーバーに着きます。
1941年12月8日、
日本が奇襲攻撃をしたパールハーバーは
現在でもアメリカ軍の基地となっていて、
その一部が
「パールハーバー・ヒストリック・サイト」
として一般に公開されています。
敷地内にはアリゾナ記念館、戦艦ミズーリ記念館、
ボーフィン潜水艦博物館、太平洋航空博物館という
4つの施設があります。
真珠湾攻撃で沈められ今も海の底にある
戦艦アリゾナが最も有名かと思いますが、
実は戦艦ミズーリは沖縄戦にも参戦しており、
ボーフィン潜水艦は沖縄からの学童疎開船
「対馬丸」を沈没させた潜水艦なのです。
私がパールハーバーを訪れた今年6月は、
アリゾナ記念館が改修中でしたので、
戦艦ミズーリ記念館を
詳しく見て回ることにしました。
戦艦ミズーリはアメリカで最後に完成し
最後に退役したため、最後の戦艦と呼ばれています。
第二次世界大戦では硫黄島の戦いや沖縄戦に参戦、
降伏文書調印式もミズーリの甲板上で行われました。
1950年代に朝鮮戦争、
1991年に湾岸戦争に出動した後退役、
1999年から記念館として一般公開されています。
数々の戦争を潜り抜けてきた戦艦の姿は迫力満点。
全長270.4m、高さは64mで20階建のビルと同じ位、
幅は最も大きいところで33mです。
この33mという幅はスリムな造りで、その理由は、
太平洋と大西洋をむすぶパナマ運河の
いちばん狭い閘門の幅が33.5mなのだそうです。
そこを通れないと途轍もなく遠回りになり
時間も燃料もかかるので、左右25cmずつの余裕で
ギリギリ通れる幅に造られたのです。
戦艦ミズーリ記念館は、
この戦艦ミズーリに実際に乗ることができます。
間近に見る16インチ砲には圧倒されます。
船の前方に2基、後方に1基ある砲塔にそれぞれ3門、
合計9門の16インチ砲が搭載されています。
砲弾の重量は860kgから1225kgあり、
射程距離は37km。
地図上で田無タワーから半径37㎞の円を描くと、
東京湾まで達します。つまり、
東京湾から戦艦ミズーリが艦砲射撃をしたら
西東京市まで届くということです。
ちなみに日本の戦艦大和が搭載していた主砲の
最大射程はこれを上回る42㎞。当時世界最大でした。
さて、日本語ガイドの方から伺った、
日本が深く関係している戦艦ミズーリのエピソードを
いくつかご紹介します。
戦艦ミズーリの船体の右側後方に、
わずかなへこみがあります。
沖縄海域で援護活動をしていた1945年4月11日、
海面すれすれの超低空飛行で
ミズーリに接近してきた1機の神風特攻機が、
左におおきく機体を傾けながら
衝突した時に出来たへこみです。
葬儀は翌日執り行われることになりました。
水葬は、ご遺体を入れた棺に
国旗をかぶせて海に葬りますが、戦艦ミズーリに
日本の国旗などあるはずがありません。そこで、
ご遺体を安置していた部屋の見張り役だった
3名の通信兵が、ありあわせの布を使って
徹夜で旭日旗を縫ってくれたそうです。
ミズーリに衝突した特攻機に
搭乗していた特攻隊員は誰なのか、
戦後の調査により2名にまで絞り込まれています。
同じ日に鹿児島から飛び立った特攻兵たちで、
どちらかの方は海の上で撃ち落とされ、
どちらかの方がミズーリに衝突したのでは、
とのことでした。
彼らは、19歳と21歳という若さでした。
ミズーリの船内には、
知覧特攻平和会館 協賛の特別展示、
「KAMIKAZE」のコーナーがあります。
神風特攻隊についての紹介映像や、
特攻兵たちの遺書も展示されています。
自分の命を敵にぶつけて散らせることを覚悟した、
彼らの手で書かれたものを、
彼らにとっての敵戦艦の中で読むというのは
とても不思議な感覚でした。
やるせないような、皮肉なような・・・
でもきっと、
ここを訪れたアメリカの人々にも強い衝撃を与え、
平和への願いを訴えかけていると思います。
海底に沈んでいる戦艦アリゾナと
向かい合うような配置のミズーリ記念館。
これは
「第二次世界大戦の『始まり』と『終わり』が
顔を合わせている」ことを表しています。
真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナが『始まり』。
では、『終わり』とは。
1945年9月2日、
東京湾に停泊した戦艦ミズーリの艦上で行われた
降伏文書調印式のことです。
てっきり、戦艦の中の部屋が使用されたのかと
思っていましたが、甲板の上で行われました。
艦長室の扉の前の、普段は一般兵は
立ち入ることの出来ない特別なスペースだそうです。
調印式のため訪れた日本政府団は、
敵の戦艦に足を踏み入れるわけですから
生きて帰れるとは思っていませんでした。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
という戦陣訓もありましたから、
覚悟を決めていたのでしょう。
しかし、この調印式冒頭にマッカーサー元帥は
「この厳粛な式を転機として、
流血と虐殺の過去からよりよい世界、
信頼と理解の上に立つ世界、人間の尊厳と、
人間の最も渇望している自由、寛容、正義の完成を
めざす世界が生まれてくることを、
私は心から希望している」とスピーチしました。
日本政府側の通訳の方は
「殺されるかもしれないと臨んだ調印式で、
まさか自由や寛容という言葉を聞くとは
思いもしなかった。そして、もし
日本が戦争に勝っていて反対の立場だったとしたら、
我々はこの様な言葉を言えただろうか」
と手記に残していたそうです。
降伏文書調印式の際にアメリカが持ってきた国旗は
古いボロボロのものでした。この国旗はなんと、
江戸時代にペリーが黒船で来航した時に、
ペリー艦隊の「ポーハタン号」に
掲げられていたのと同じ国旗。
ミズーリが錨を降ろした場所も、
ペリーが2度目に来航した時と同じ場所でした。
これはアメリカ側が、
「日本にもう一度開国をさせる」
という意味を込めてのことでした。
降伏文書調印式の後、つまり第二次世界大戦の後も
戦艦ミズーリは参戦しています。
近代化に伴い武器も進化し、
1発1億円するといわれる
高性能のトマホークミサイルの発射器は8基装備。
射程距離120km以上のミサイルもあると
パンフレットに書いてありました。
どんどんお金をかけて、
人を殺すための武器が洗練されていくことに
悲しい気持ちになってしまいました。
私は戦艦ミズーリ記念館のツアーを通して、
日本側だけでなくアメリカ側の視点からも
先の大戦を学び、多角的に捉えることで、
なぜ戦争が起きてしまうのか、
どうしたら戦争を防げるのか、
という事を考えるきっかけを得られたと思います。
艦内の壁に描かれた
「リメンバー・パールハーバー」の文字。
広島の被爆者の方は
「リメンバーには恨みが込められてしまうから、
ノーモア被爆者なんだ」と話しています。
ノーモア戦争に向けて、
まだまだ学ばなくてはいけないと強く感じました。
次回はわたしの育った西東京市編で、最終回です。