安居島 伊予灘の島々 | ジギング 伊予灘のジギング 心技体

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元 西岡遊魚テスター キクリンのブログ

安居島の概要

 

北条港から北西13.5kmの沖合にある東西1.3km、南北0.2kmの小島。

平地はほとんどなく、やや傾斜のある高地(最高点55m)で、南向きに湾が開いており、わずかの畑以外は雑木林となっている。

 

 

拡大図

 

北条港(北条港務所)からフェリーで約35分

面積/0.26km2 周囲/3.5km

フェリーに関しては下記をご覧ください。

https://www.dandanmatsuyama.com/kutsuna/access.php

 

昔は海上交通が、みちの主流をなしていた。
とくに瀬戸内海は、日本の政治、経済、文化の動脈でメインス トリートであった。
安居島は、安政年間(1854~1859)から、明治期にかけて賑わいを見せた。
帆船の潮待ちや風待ちの港として、多数の船が 出入りしていた。
道後、三津、安居鳥と三大遊都の一つとして 存在するほどの繁栄であった。

しかし昭和になり、船が大型化、動力化するにつれ、島は急激 に衰退の一途をたどり始めた。
昭和30年の532人をピークに、現在は10人程度と思われる。
島の約2.5キロ南東には属島の小安居島(無人島)がある。

 

太平洋戦争時には、海軍の特設見張所があった。

http://www17.big.or.jp/~father/aab/kure/ai/ai.html

 

 

小安居島

 

安居島の昔と先駆者

 

安居島は江戸時代の初めから、所属をめぐって広島と松山で争いが続いていた。
この争いも文化年間(1804~1817)ようやく終止符が打たれ松山領と確定した。

それまでは、合島、相島、愛島、藍島とも呼ばれていたという。
たが、松山領になり安んじて居をなすようになったので、安居島と呼 ぶようになったそうである。
文化十三年(1816)松山藩主は、風早郡代官、広橋太助に安居島の開発を命じた。
代官広橋太助は、安居島に定住するものをつのった所、浅海の庄屋の孫の大内金左衛門が名乗り出て、

辛苦の努力により、島が開発され、
嘉永六年(1853)には、二十六戸になった。最盛期には、約百二十戸に達した。
港が整備されると帆船が潮待ち、風待ちで、年間三千五百艘の船が出入りしていたという。
安居島開拓の功労者で島の開祖である、大内金左衛門之碑は、島の東の海岸近くに建立されて、いまにその遺徳をたたえている。


伝説  「みどり石」

昔、安居島に遊郭があった頃の話じゃ。
江戸時代の終り頃この島にいた遊女みどりは、たびたび通ってくる男と恋仲になったんじゃが、

かなわぬ恋に嘆き悲しみ「小波止」から身を投げてしもうたんじゃ。
すると、みどりの遺体は、島の東側の「ミズバ」という浜の岩の上に打ち寄せられたんよ。
その後、誰いうともなしにこの岩を「みどり石」と呼ぶようになったんよ。
明治時代になって、港を改修するため石工を雇い、この岩を割ったところ、

石の中から「白蛇」が出てきて、その石工は病気になってしもうたそうな。
それからは、この岩に手をつける者はいないんよ。
みどりの墓は、島の西側の丘の上にある墓地に今でも残っとる。

墓石には「天保二年六月二日」と刻んであるんよ。
(北条市史より)

 

釣りに関して

ジギングなどで直接に安居島に行く事は無いが釣人が島を訪れる事はある。
定期船が1日1便北条より出る。夕方出発し翌日の朝帰港する。
宿は無いが地域の集会所に有料で泊まることが出来る。

連絡船の桟橋前にはコインシャワーと公衆ポットントイレがある。

私も1度だけ訪れたが優しい感じのする島で魚種も豊富である。

安居島の沖では数年前まで太刀魚が釣れていて大船団が押し寄せていたが太刀魚の資源の枯渇により今は見られない。

 

 

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引き続きわかる事があれば加筆訂正していきたいと思う。