「構造調整プログラム(برنامج التقويم الهيكلي)」は、モロッコを含む多くの発展途上国が1980年代に経済的な危機に直面した際に、国際通貨基金(IMF)や世界銀行からの支援を受けて実施した経済改革の一環です。このプログラムは、主に以下の要素を含んでいます。
構造調整プログラムの主な内容:
-
財政の緊縮:
- 政府の支出削減が求められ、公共サービスや福祉の支出が縮小されました。これにより、教育や医療、社会福祉などの分野での支出が減少しました。
-
民営化:
- 国有企業の民営化が進められました。これにより、国家が管理していた事業を民間企業に売却し、効率化や競争力を高めることを目指しました。
-
自由化と規制緩和:
- 貿易や投資の自由化が進められ、外国企業の参入を促進するために規制が緩和されました。また、価格や市場の規制を緩和し、市場原理に基づく経済運営が求められました。
-
通貨の切り下げと金利の引き上げ:
- 通貨の価値が切り下げられ、輸出の競争力を高めるとともに、インフレ抑制を目指して金利が引き上げられました。
-
外部借入の増加:
- 支援を受けるために、国際機関からの借り入れが増加し、外部負債が増えました。これにより、長期的な経済の安定性に対する懸念も生じました。
モロッコの状況における影響:
- 1980年代、モロッコは深刻な経済的困難に直面しており、政府はこれを打開するためにIMFや世界銀行と協力して構造調整プログラムを導入しました。これにより、モロッコは支援を受けると同時に、経済改革を進めることを余儀なくされました。
- プログラムは短期的には経済の安定化を図ったものの、社会的な影響として、貧困層や中間層への負担が増し、社会的格差が拡大する結果となることもありました。
- 特に、公共サービスの削減や社会保障の削減は、低所得層や農村部の人々に大きな影響を与え、社会的な不満が高まりました。
このように、「構造調整プログラム」は、モロッコをはじめとする多くの国々において、経済的な改革を推進するための重要な施策となりましたが、その過程で社会的な問題も引き起こし、長期的な経済の安定性や公平性については賛否両論が存在しています。
ーーー
モロッコにおける協会活動の歴史とその発展過程、特に政治や経済的背景の影響について解説しています。以下に、重要なポイントを説明します。
1. 協会設立の権利と制約
-
背景:
- モロッコが独立を果たした1950年代後半、協会活動は本格的に展開することが期待されていました。しかし、実際には協会設立の権利は大きく制約され、政党の影響下に置かれることが多かったです。
- 特に、当時の主要政党である「独立党(イスティクラール党)」や「民族人民連合(イティハッド・ワタニ・リルクワート・シャアビヤ)」に関連する協会が支配的な役割を果たしました。これにより、協会活動は政党の延長線上で行われることが一般的でした。
-
1958年の「公共の自由に関する勅令(ظهير الحريات العامة)」:
- この法令は、協会設立、集会の自由、報道の自由を規定する3つの重要な勅令を含んでいました。
- 特に1958年11月15日に発布された勅令番号376-58-1は、協会設立に関する法的枠組みを提供しました。しかし、政治的緊張や政府の介入により、協会活動は依然として制限されていました。
2. 1990年代初頭の戦略転換
-
経済的背景:
- 1980年代はモロッコ経済にとって困難な時期であり、経済危機の影響で国家の財政は逼迫していました。この結果、モロッコ政府は「構造調整プログラム(برنامج التقويم الهيكلي)」を導入しました。
- 構造調整プログラムとは、国際通貨基金(IMF)や世界銀行などの支援のもとで実施される政策で、政府支出削減や財政緊縮、民営化を含む一連の改革を指します。
-
社会政策の縮小:
- 構造調整により、政府の社会的役割が縮小し、それまで国家が担っていた福祉や社会サービスが大幅に削減されました。この変化により、市民社会(協会やNGO)が新たな役割を果たす必要性が高まりました。
-
協会への新たな期待:
- 国家の社会的責任が縮小する中で、協会は地域社会での支援やサービス提供の主体として期待されるようになりました。このような背景の中で、国家の協会に対する戦略も変化し、協会設立がより容易になり、社会における役割が拡大しました。
3. 解釈と現代的意義
このテキストは、モロッコの協会活動の歴史的な進展を次のように理解することができます:
- 独立後の協会活動は、政党や政治的対立の影響を大きく受け、制約された時期が長く続きました。
- 1990年代以降、経済改革や国家戦略の転換により、協会は社会的役割を拡大し、市民社会の重要な一部として発展しました。
- この歴史は、協会が単なる組織ではなく、国家と市民社会との関係性を反映する重要なメカニズムであることを示しています。
特に、経済的な構造改革やグローバル化の進展が協会活動にどのような影響を与えたかを理解することは、モロッコだけでなく他のアラブ諸国における市民社会の発展を考察する上でも重要です。
ーーーーー
その時期には政党に関連した協会が支配的でした。特に、イティハッド・ワタニ・リルクワート・シャアビヤ(民族人民連合)やイスティクラール党(独立党)に関連する一連の協会がこの時期に出現しました。
1958年の「公共の自由に関する勅令」(ظهير الحريات العامة)の発布にもかかわらず、協会設立の権利は、その時代を特徴づけた政治的対立の中で、大きな制約を受けていました。この勅令は3つの重要な法令を含んでおり、それぞれ協会設立、集会の自由、報道に関する規制を定めています。この枠組みの中で、1958年11月15日に発布された勅令番号376-58-1は、協会設立の法的枠組みを確立しました。
1990年代初頭になると、国家の協会に対する戦略が変化し、いわゆる「第三の段階」に入ります。この変化は、1980年代の危機の影響や、国家による社会的介入の弱体化・縮小といった背景の中で生じました。これは、国家が財政緊縮政策を採用し、構造調整プログラム(برنامج التقويم الهيكلي)の一環として行った措置によるものです。