【エジプト(カイロ)アズハル学院 元留学生にインタビュー20160722】

こんにちは、岩口昇龍です!

ご縁があり1980年代にエジプトの首都カイロにある、
アズハル学院に留学していた日本人男性にインタビューすることができたので
近いうちに私が不定期にYouTubeにアップデートしている
ネットラジオ番組「アラビアン・サファリ」に公開できると思います。

アズハル学院は、高校世界史の用語集にも登場する歴史あるアラビア語等の研究期間です。
http://www.y-history.net/appendix/wh0502-030.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%83%8F%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%AD%A6

アル=アズハル大学(英語: Al-Azhar University)は、カイロに本部を置くエジプトの公立大学である。970年に設置された。 アラビア語では '(جامعة الأزهر (الشريف Jāmiʻat al-Azhar (al-Sharīf) 'と呼ばれる。イスラム教スンナ派の最高教育機関として有名であり、現存する世界最古の大学の1つである。アル=アズハル学院とも呼称される。

下記は、インタビューに使用した原稿です。
ネットラジオには音声収録を少しだけ編集したものをアップする予定です。
(ご本人の了承を得て、掲載致します)
とても貴重な内容です。
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自己紹介
Kさま
生まれも育ちも東京
大学を卒業して2、3年してから、アラビア語を勉強し、それからカイロのアズハル学院で5年ほど勉強しま した。時期的には80年から85年です。 帰国後は制作・印刷関係で、主に中東向けの制作物を扱う仕事をしていました。 また10年以上前からは国際関係の団体で社会活動に参加しています。 現在はアラビア語やイスラーム事情関係の仕事を依頼に応じて行っています。

留学のきっかけ
私が学生生活を送っていたころはオイルショックの後で、中東への関心が高い時期でした。 また世界史についてのとらえ方の見直しがされた時期でもあり、従来の西欧+北米の西欧史と、中国を中心と するアジア史を合わせたものを世界史とすることへの疑問が大きく出てきたのです。例えば、ヨーロッパのル ネッサンスにしても、ギリシャ、ローマの文明、文化を元にしていると言われても、直接ではなく、中東で発 展したものを取り入れてだったのですから、当然のことと言えます。

奨学金
現地でイスラーム問題最高会議より取得しました。1000年以上前から、留学生を抱えているという歴史が ある土地柄です。奨学金を取得することは留学生にとっては、言わば必須条件で、金額はスズメの涙ほどでし たが、これによって学費の免除と寮に入る権利を取得することができました。 マアハドだったので、最初は15ポンドで、そのうちの半分を寮費として引かれました。2年ほどして25ポ ンドに上がり、その後30ポンドになりました。 通貨はエジプトポンドで、1エジプトポンドが100ピアストルです。最初に行った当時は、公共料金として 抑えられていたバスが5ピアストル、公務員の初任給が25ポンドぐらいの時代でした。

アズハル学院
外国人養成機関 アズハルの留学生が最初に入るところで、上級、中級、初級の3コースがある。上級コースに入った場合は、 約1年で養成機関を終えることが可能と聞き及び、校長との面接で上級コースに入る。 最初は十数人はいたクラスも、しばらくするとやめていくものも出てきて、早いのは1ヶ月で帰国した者もい た。
アズハルの中学1年のテキストで、毎日約3時間学習。 科目:タフスィール、ハディース、タウヒード、フィクフ、スィーラ・ナバウィーヤ、文法 終了書の発行はなく、上位の学校への入学手続きにおいて発行される証明書が実質的にこれに代わるものであ った。
入学試験 日本人の場合は、自国での教育レベルが高いということもあって、コネで教育学部付属の予科に入学し、そこ で2年間勉強して試験に合格すれば、学部へ進むことができた。少なくとも、私よりも先んじて滞在している 二人の(一人は寮、もう一人はアパートに住む)日本人からの話では、皆そうであった。 ところが私の場合はそうはいかなかった。コネがなく、また見つからなかったのである。残された道はマアハ ドの入学試験を受けることであった。寮に長く住む外国人の友人たち(マルディブ、トルコ、フィリピン、カンボジアなど)に訊くと、養成機関で学んだこととは関係なく、アズハルのマアハドのテキストに関係する問 題が出るとのこと。彼らからアドバイスを受けたり、教えてもらったが、問題の傾向さえ未知のことで、しか も試験まで1ヶ月を切っていた。 試験当日、複数の科目を受験したが、やはり習ったことのないことについてのものがほとんどであった。また 面接では経歴や過去の学習について訊かれた。この試験はマアハドの中等部と高等部の振り分けを兼ねるもの で、自国でイスラーム関係を学習済みのあるインドネシア人のように飛び級を含めて高等部の3年に入ったも のもいたが、私の場合はどうにか高等部の1年と言うところであった。

マアハド(学院)
概要
ここは文系のマアハドで、期間は普通よりも1年長い4年。しかし、ずっと以前は5年だったとか。 教室には木製の机と椅子があるのみで、冷暖房の設備は一切なし。寒い時期は教師も学生もコートやジャンパ ーを着たままである。下を見ると、黄色っぽい砂を目にすることもあった。床はコンクリートの枠組みの上に 砂を蒔き、その上にタイルを敷いており、そのため長い年月の間に摩擦によってタイルが浮いて、その下の砂 が顔を見せたのである。 また窓ガラスは、中にはしまりの悪いのもあって、強い風が吹いたときは空いてしまうのもあった。例えば4 年のタウヒードの授業の時、強い風によって窓が開いた。思わず“ファタハッ・ラッホ・ルアズィームと口か ら出てしまい、大うけをした。ファタハは開くという意味で、窓が開いたことと運が開くことを書けたのであ る。つまり、運が開けますようにということである。 学生数は当初は約数十名いたが、その後4年間のうちに帰国した者もいた。フィリピン人の友人もその一人で、 リューマチのような症状の悪化で帰国した。4年を終えるころは30名ぐらいであっただろうか。

授業
総て正則アラビア語(フスファー)による授業で、一日数科目。 授業の収量は用務員の鳴らす金で知らされる。
科目(文系)
全学年共通
基本科目:コーラン、タフスィール、ハディース、タウヒード、タジュウィード、フィクフ その他:文法、語形論、比喩学、文学、購読・作文、 学年別:韻律論、歴史(アラブ史、世界史)、人文地理、物理、化学、生物、地学、論理学、社会学
教師 教師については、どのクラスの授業にも視覚障害の先生が必ず一人いた。視覚障害があっても教鞭をとれるの は唯一アズハルだけである。主にコーランやタフスィールの授業を担当していたが、中にはこれに限らず、い ろいろなことを知っていて、フィクフの教師が質問しているところを見かけたこともあった。 反対によく知らない教師もいた。2年の時のタフスィールの教師がそうであった。最初教師が何回か担当した のちに都合で他のクラスに移り、代わりに来たのだが、ほとんどは意味を説明するのみであった。クルアーン には知恵や規範が多く述べられており、また文法の解釈によってニュアンスが複数存在する。このため文法の 面から解説した本を使いながら予習をすることにし、テキストの欄外の空白に小さい字で必要なことを書きこ んだ。ある時、教師が例によって意味ばかりを説明するので、文法上の解釈について質問をした。すると「え っ、また意味を説明するのかと言いながら、私のところにやって来て、テキストを覗き込んだ。この時私は右 手の親指でテキストの欄外に書いた質問の答えに当たるメモを隠していた。結局、教師は戻って、また意味を 説明しただけであった。 しかし、文法を教えてくれたある教師のように、ドゥアーから始める教師もいた。ドゥアーとは“願い”のこ

とで、“学生たちがよく知ることができ、理解を深め、これによって上達しますように”などと唱え、その後 でテキストを開いて教え始めた。 この他、ドゥアーは唱えなくても、金曜礼拝のフトゥバ(説教)を始める時と同じように、(慈悲深きアッラ ーの名において)バスマラ、そして“アッラーに称賛あれ、ムハンマドは使わされた使徒の中で最も栄誉ある ものであり、彼の一家、教友、それに続くすべてのものに祝福あれ”という教師は結構いた。

試験
筆記と口頭試問で、時期は6月(現在は前期と後期に分かれている)。全筆記試験終了の10日後くらいにお こなわれた。 口頭試問はコーランのみであったが、実際には、タジュウィードを理解しているかを図るためのものであって、 ただ暗記だけでは済まないので、書くとともにホサリーのテープを聞いて覚えるようにした。 尚、2科目までは追試を受けられるが、それ以上は留年。

生活
寮の建物内外の概要 寮生活で、寮はアッバースィーヤという地区にありました。アッバース朝がエジプトを統治していたころ軍の 駐屯地があったところで、その後ファーティマ朝の時代にあったゴミの廃棄場所の近くでもありました。 寮はこの一角のひし形を横に延ばしたような形の広い土地にあって、寮生が住む31と寮監の建物からなって いました。この他、土地の一番南側には8号館と柵を挟んで、地元の人や寮生も診てもらえるアズハルの診療 機関の一つがありました。 寮の中は5つのブロックに分かれ、また1号館から3号館はエジプト人学生用となっていました。 各建物は4階建てで、1階はブロック管轄事務所、住居課などの各種事務所、各ブロックの食堂、カフェテリ ア、作業場、倉庫、外来者との面会所などとなっていて、2階から4階が住居部分となっていました。 住居部分は、中央の階段を上ると正面に広い共有スペースが、左右にはそれぞれ通路を挟んで5部屋がありま す。すべて個室ですので、従って定員は各階20人、建物一つ全体で60人です。 各部屋には番号が振られ、例えば2階の場合では、共有スペースを正面に見て右側がアリフ、左側がベー、日 本で言えば、イロハのイ、ロで、各側の右手前から1,2,3となっていました。 しかし学生の数が増えてくると、各側の入り口手前にあった清掃員たちが使う部屋や共有スペースが次第に寮 生の住む部屋に代わっていきました。 広さは大体、通常の部屋が四畳半、もともとは清掃員たち用であったところは四畳、共有スペースを区切って 作られたところは三畳でした。因みに私の場合は最初は4号館のベーの10で、1年後に引っ越したところは 27号館の2階アリフ入り口手前の清掃員たち用の部屋でした。ここはスペース的には少し狭かったですが、 隣の部屋と接しているだけで、その他の部屋からは離れているので落ち着けました。 当時寮全体では72の国、地域、ほとんどはアジアアフリカから、約3000人の学生が住んでいて、その中 で日本人は2、3人。付き合っていたのもみなトルコ、マルデブ、フィリピン、カンボジアといった外国人ば かりでした。

食事
朝と昼だけ付き、夜は自炊です。 朝はエーシュという丸い袋状のパンと塩辛い脱脂乳からつくられた多様なチーズ、ジャムもしくは胡麻をすり 潰した甘いペースと色の濃い紅茶です。当初は朝食としては重すぎてなじめず、オレンジ1個とトルココーヒ ー2杯で済ませました。その後はエーシュも結構食べるようになりましたが、塩辛いチーズだけは受け付けず、 赤いビニールで包まれたエダムチーズ、オリーブとともにとりました。
昼食は食堂で食べても、持ち帰ってよくて、大体は持ち帰って部屋でとりました。食事は雑穀のようなものを 入れた炊き込みご飯、肉、サラダ、薄いトマト味のスープ、オレンジやブドウの果物一品で、声にエーシュを 希望に応じて採ることができました。サラダはトマト、レタス、タマネギ、ニンジンを雑多切りにしたもの、 また肉については週に3~4回が鳥の丸焼き4分の1程度、牛、羊あるいはラクダの肉の焼いた小さい一固ま りが2~3回、油で揚げて薄いトマトベースで煮た魚が1回でした。因みに魚は大体木曜日でした。 夜は自炊をしなければなりませんでしたが、米を炊くことはあまりありませんでした。というのも、濃い詩や ゴミなどが含まれていて、それを取り除くのに時間を要するからで、加えて基本生活必需品は一般には昔の日 本の米穀通帳に当たるものを提示して出ないと買えないので、外国人にとっては手に入りにくいものの一つで した。それで私の場合大体はエーシュでした。 米は質が悪く、炊き上がった時はよいのですが、冷めると馴染みのないちょっと嫌なにおいがするようになり ます。そこで、米を食べる時はトマトベースのソースをかけるか、あるいはあらかじめ油を加えて炊くように していました。 しかし授業が本格的になり、更に年一度の学年末試験に向けての勉強をする時期になると、そう時間をかけら れませんので、昼間食堂から持ってきたり、まとめて買っておいたエーシュをあぶりなおして食べることが多 くなりました。尚この他、ジャガイモやインゲン豆などを茹でたり、煮たりと言うときもありました。こうい うのは、ストーブの代わりに暖房に電熱器を使う冬場が多かったです。寒い時は日本と1ヶ月程くらいしか違 いませんが、どの部屋にも暖房の設備はありませんでしたから。いわば、スチーム暖房と言うところでした。 ところで水についてですが、外から送水されていったん貯水槽に入ります。それから電気でくみ上げて各建物 に配水されます。このため停電すると断水です。総じて水の使用量が多い夏は断水、電力消費量の多い冬は停 電とそれに伴う断水が起きやすかったです。通常、水は各階左右の側に1か所ずつある洗面所、トイレ、シャ ワーとを一体にした部屋があり、そこから取りますが、哀れなのは頭や体に石鹸が塗られている状況で断水に 遭うことです。これほどみじめなことはありません。幸いにして一度もこういう目には合わずに済みましたが、 タオルでふき取って出てくる何人か見かけました。 それからシャワーはお湯が出るところが1か所ありましたが、その建物までは結構離れていましたので、もっ ぱら水で浴びました。エジプトは暑いと思われていますが、冬は日本と1ヶ月ぐらいしか違いません。寒いさ なかの1月のある晩、停電していたものの、幸い水の方は給水されていましたので、蝋燭をともしながら体を 洗うべくシャワーを浴びていました。すると、外で「こんな寒いのに水でシャワーを浴びるなんて誰だい?日 本人だよ。」の声が聞こえました。

日々の生活
日々の生活は、朝マアハドに行き、午後帰ると食堂に向かいます。部屋で昼食をとり、トルココーヒーを2杯 飲んでから午睡をとります。 起きてからは片付けや洗濯などをしてから勉強をし、暗くなったころ、友人たちの部屋を訊ねたりカフェテリ アに出向いたり、あるいは寮の中を散策したりしていました。 カフェテリアには、ビスケット、ヨーグルト、サンドイッチといったちょっとした口に入れるものや文房具類 がありました。しかし、そこで間に合わない場合、例えば、チーズやエーシュなどは6~7分近く歩いたとこ ろにある製パン所や更に10分ほど先の大通りに面した商店に行きました。 これを除いては、マアハドに通う以外の外出は、月1回奨学金をもらいに行くなどの必要のない限り、基本的 に週1回、日本の土曜日に当たる木曜日の午後だけにしていました。 あとは勉強をするだけです。たとえ学問的なことはよくわからなくても社会や生活の中で身につけているイス ラーム圏から来た学生とは違いますからね。明け方ぐらいまで続け、その後机に向かって2時間ほど仮眠をと り、朝食を食べてマアハドに向かいました。

買い物
木曜日の午後はバスに揺られてカイロの台所と言われるアタバに買い物に行きます。アタバには通帳なしの外 国人でも砂糖やコメなどを買える協同組合のようなものに当たる政府の店がありましたので、街に出た時は時 折立ち寄りました。なくなるといつ買えるかわかりませんので、こういうふうに少しずつ買い込んでストック しておくのです。砂糖なども4、5キロストックして置いて自分で使うほか、友人たちがなくなった場合にも 分けてやりました。 それから市場やその周辺の店で野菜、果物、日用雑貨などを買います。寮を出てくるときに黄色いショルダー バッグを持ってきますが、それで足りなくなると、中から風呂敷を取り出して、それにくるみました。現地の 人の目には変わったものと映ったようで、皆ニヤリとしていました。 さて、買い物が終わると、バスが通るアズハル通りを渡ってそれと並行しているモスキー通りに入ります。舗 装されていない道で、まっすぐ行くとフセイン、すなわち観光客がよくいくハーンハリーリーの手前で最初の 王朝のファーティマ朝の都大路と交差します。更に道の両側に立ち並ぶ土産物やスパイス類を売る店を見なが ら進むと、フセインの手前左側にお菓子屋が見えてきます。ここでバスブーサを4分の1キロ買います。量り 売りのものはほとんどキロ単位で売られています。 街に出るとひょんなところで教養の高い人と出会ったりすることがあります。アタバで台所用品などを扱う店 の主人もそうでしたが、この店にも二人いました。二人ともアズハルで教鞭をとっていて、一人は教育学部の 助教授、もう一人はマアハドの国語の教師です。給料だけでは足りないので、アルバイトをしているわけです。 それで買い物の際に、「今何を勉強している?」、「それじゃ、これの文法の説明は?」などと訊かれることも あって、まるで試験の口頭試問を受けている感じでした。因みにアタバの方では「スンニーとシーアの違い は?」、「ムゥタズィラとは?」などの質問を受けました。
ここを出ると、後はバスに乗って帰りました。

文責:アラブ・コンサルティングサービス東京(A.CS東京)代表 岩口昇龍