亡くなった大切な方の思い出を
ともに慈しみあう時間をもちました。
私の尊敬する元上司。
その上司の残された奥様と。
はじめてお伺いした
上司のご自宅で。
私が宛てた何通もの手紙を見せていただいて赤面したり
上司が描いた自画像を拝見したり。
奥様が知るプライベートの姿と
私が知る職場での姿とを
お互いが知らないエピソードを
交換しあいながら、
泣いて
お茶を飲んで
また泣いて、
お菓子を食べて。
私は母の死の痛みを
ひと山ふた山越えてようやく
懐かしい写真を見るように静かに向き合えるようになったばかりだけど。
目の前の美しく気丈な年上の方は
その傷みのただ中にいて、
後悔のことばは出しても出しても尽きることがなく
何度も何度もくり返しています。
濃く深い愛おしさと
自分を責め悔いる気持ちは
ひんやり透明ななにかとなって、
部屋のなかをいっぱいにを満たしていくのが
見えるようでした。
その思いが尽きるまで
からからになるまで味わいきるしかないのを知っているから、
言葉や涙をさえぎったり蓋をしたりせず
ただ聞いて
一緒に泣くだけ。
私の経験や一般論の気休めなんか意味がないのです。
上司が何を考え
どのような思いを抱えていたか、
私はもちろん
奥様でさえも知ることはできない。
それはとてもさびしいことにも感じます。
だからこそ残された私たちは
残された自分の時間を
亡き人に語りかけながら
目の前の人と自分を慈しみながら
目に見えぬ存在と見える存在の両方を感じながら
生きていくのかもしれません。
私は
大好きな上司をいつも心に感じながら
その死によってつながった奥様とのご縁を
深く感謝してもいるのでした。