NHKの「奥さんご一緒に」で我家が放映されました
NHKの「奥さんご一緒に」は、気くばりのすすめで有名な鈴木健二さんの番組で、毎週日曜日の朝8時から放映していた2時間番組です。1ヶ月に1回は地方局からの放映ということで、この時はNHK松本放送局が担当して我家を舞台に放映されました。ロケ日は昭和50年1月28日、放映日は昭和50年2月7日でした。
長野県は現在は長野放送局のみですが、当時は長野放送局と松本放送局の2局がありました。この時は、さらに甲府放送局との3局共同でロケが行われました。
我が家での司会進行は、平成16年に逝去された吉井俊弘アナウンサーで、レポートは地方リポーターの長野市の金丸登美子さんでした。当時、進取的な活動をしていた佐野地区の「さわらび会」6名と中央大学の山下良雄教授との座談会形式で進められ、山村の白馬村が、観光白馬として急激に発展してきた背景や、「さわらび会」の活動状況が紹介されました。
ロケの時にモニターに私が映ったところを父が写真を撮ってくれました。
私の姉と外の便所
私が2歳のころ、庭で姉と撮った写真です。後ろに見えるのは便所です。
我が家は昭和35年ごろまで、家の中に農耕用の馬がいました。現在の両親の部屋とトイレの位置が馬屋(まや)でした。当時、どこの農家もそうであったように便所は外にありました。母屋から便所に向かって飛び石が置いてあるのがわかると思います。ここは農機具置き場でもあり、母屋に面している側にはニワトリを飼っていて、奥にトイレがありました。手前に見えるニワトリ小屋だった部分は潰してしまいましたが、便所の部分は今も残っていて、農機具置き場として使っています。当時子供だった姉は夜は怖くて外の便所に行くことが出来ず、馬のトイレを拝借していたと聞きました。姉とは11歳離れているので、姉におむつを替えてもらい、子守りをしてもらいました。私が小学校1年の時に姉はアメリカの高校に留学し、帰ってきてしばらくしたら関西の大学に行き就職してしまったため、姉と生活していた時の記憶はあまりないのですが、人生の節目節目に姉から祝福されたり、甥っ子の話で盛り上がったりする時、やはり兄弟っていいもんだなぁと思います。
我が家のポストと父のオートバイ
私の家は郵便物取扱所をやっていて、切手や葉書の販売を行っており、玄関にはポストがあります。40年経った現在もこのポストを含めて玄関の景色はほとんど変わっていません。
右に見えるのは父が乗っていたオートバイです。私が小学校2年の時まで、父は車の免許を持っておらず、オートバイに乗っていました。民宿の買い物は配達してもらう事もありましたが、父が仕事で忙しい時は母と南神城の駅まで歩き、電車に乗って大町まで出かけて買い物をし、帰りは買い物を詰めた段ボール箱を縄で背中にしょって歩いて帰ってきました。その頃、白馬村には歯医者が無く、父のバイクの前に乗せてもらって大町まで行っていたのですが、国道は舗装してなかったのでバイクで走るとすごい埃で、帰ってくると顔が砂埃で真っ黒になっていたのを覚えています。冬はバイクにチェーンを掛けて走っていたのですが、タイヤと泥よけの隙間に雪がどんどん溜まっていくので、少し走っては止まって雪を取り除いてはまた走っていました。
父が49歳の時に車の免許を取ることを決意し、歳の数だけ時間を乗らないと受からないと言われていたのを、確か42時間くらいで合格して車を買いました。最初の車は中古のマツダのカペラでした。
曾御婆ちゃんの思い出
私の祖父は日中戦争にて戦死し、祖母は私の生まれる5か月前に亡くなったのですが、曾祖母は私が小学校2年生の時まで生きていました。私が持っている写真の中で曾祖母の写真を探したのですがなかなか見つからず、唯一見つけたのが下の写真です。まだ私が生まれる前の、夏の写真のようで、中央から右に向かって腰を曲げて歩いているのが曾祖母です。まわりにいるのは民宿学生村のお客さんたちです。
両親が外で働いている間は、よく曾祖母に子守りをしてもらっていたのを覚えています。曾祖母の事は、家族も親戚も近所の方々も「おばば」と呼んでいました。その頃は、我が家はおばばと両親と姉と私の5人家族だったのですが、コタツに座るときは、私以外は定位置があり、私はいつも端っこの方に座っていたので、「おばばが居なければ僕もちゃんと座れるのに。早くおばば死なないかな。」と言っては、「そんなこと言うもんじゃない!」と両親に怒られていたそうです。そんな時でも、おばばの私を見る顔はいつも笑顔でした。2階の日当たりの良い南向きの部屋が、おばばの機織り(はたおり)部屋で、私はあまり記憶にないのですが、そこで機(はた)を織っていたそうです。その部屋はその後、姉の部屋になり、今は私の部屋となっています。
私が小学校2年生の秋、当時アメリカの高校に一年間留学していた姉の帰りを待つようにして、帰国後しばらくしておばばが亡くなりました。私はコタツでおばばが座っていた位置に座れるようになりましたが、とても悲しかったです。子供が5人、孫が17人、曾孫は50人くらいはいたのではないでしょうか。89歳の大往生でした。近所の方々も大勢集まり、大声で泣いている人も沢山いました。













