木村敏によると精神障害者以外にも超心理学的超能力者という異常の在り方がある。これは多数者正常の原則から見た異常でしかなかった。

主に障害者を肯定的に研究し、荘子的に人生の方針を探っていた私は、

···例えば“いい感じに散らかった生き方”や“世俗に立ち混じる”人生方針を打ち出していた。無為自然の正しさも分かってきた。世間的には無茶苦茶をやっていたかもしれないし、確かに反面、探求中には瘴気まみれになっていた事もよくあったと思う。が、滅茶苦茶楽しくのめり込んでいた事もまた事実である。

 

 

 

他にも超能力者に目を向ける可能性というのを見つけた。

しかし、荘子は決して自ら霊能者をはるタイプではなさそうだ。

阿部吉雄著「荘子」によると、超自然主義絵画の精神態度に荘子の態度は似ているところがあるようだ。(絵画に関して言えば、荘子には野獣派的な所も指摘されている。)

そこで、“超自然的存在”と、神仏などを抽象化して捉えてみる事で、この荘子の一面を追求出来るように思う。超自然的存在という見方は超心理学者達からヒントを得た。(詳しくはミラン·リーズル著「聖書の奇蹟―イエスと超能力」参照)

尚、荘子の考えについては面白い指摘があるので引用する。

野村茂夫著 「ビギナーズ・クラシックス中国の古典 老子·荘子」

いま鍛冶屋の親方が金をとかして剣を作ろうとするとき、金が躍りあがって『わしはきっとばくやのような名剣になる』と叫んだら、親方はこの禍々しい金めが、と思うに違いない。いま私はおこがましくも人間の形を盗んでこの世にいる、それが死を迎えて、『自分は人間でなければいやだ、人間でなければいやだ』と叫んだならば、造化者はこのろくでなしめが、と思うに違いない。

もし天地を大きなるつぼ、造物者を鍛冶屋の親方と見なすなら、どのような形にされてもよいではないか。やすらかに眠り、あれあれと目覚めるまでのことよ」

···「莫逆の友」という言葉の出典となるこの章は、荘子らしいユーモアとグロテスクの混合した世界です。

文頭の、無を首、生を脊、死を尻とするという比喩は、要するに人は無から生じ、生を経て、最後にはまたはじめの無に帰ってゆくことを述べたものです。以下はそれにもとづき、巧みな比喩と軽快な問答とによって、死を恐れ生に執着することが、運命に逆らう人間の妄執であると説いています。この妄執の束縛からの解放、これが県解です。

本章では人間の運命を支配するものとして、造物者、あるいは造化者を登場させています。これは人格をもつ運命の主宰者、万物を支配する至上神のことではありません。

自然の変化そのもの、道のはたらきを擬人化しているのです。この自然の変化そのものを、人の力ではいかんともし難い運命ととり、それに随順することによって、いかなる不幸をも不幸とせず笑い飛ばす、たくましい生き方が見いだされます。」

下線部を見て思い出すのは、イマジナリーフレンドに関する論文で、空間に人間的パターンを見出す能力と宗教的想像力の関係や、社会的認知能力の高さが指摘されている事である。

荘子が仏教などの宗教と比べて明らかに社会性を強調していない特徴があるのはこの辺の事情があるのではないかなどと💡