三年坂を上りきると「県庁前交差点」です。
そこに
八代将軍の徳川吉宗の像があります。
あ!ライフジャケットバージョン!!!
訪れた時は、吉宗像にライフジャケットが着用されていて
「ライフジャケット着用推進キャンペーン」
が実地されていました。
(※7月下旬の話です)
台座は大きな視野で物事を考えた将軍にちなんで、丸い部分は広い世界、即ち、地球を表現しているそうです。
和歌山城へ向かう吉宗さん。
正直、交通量が多いので、撮影していて誰かに合うと恥ずかしい・・・。
次は、三年坂から国道42号線を走らずに
美術館や博物館沿いの道を通って行き
和歌山大学教育学部附属小学校の門前を通りました。
レンガ造りの正門が素敵です。
門前から坂を下ると、フェンスの向こうに「カールケッペン寓居之跡」と碑がありました。
(なんか聞いたことのある名前やけど、誰?)
と思い調べてみたら・・・
明治2年(1869)に、陸奥宗光の仲介で軍事教練の指導者としてドイツから和歌山藩に招聘(しょうへい)され、2年にわたり滞在。
現在のこの付近に設立された「兵学寮」で、兵士たちと寝食を共にしながらプロセイン式教練や、爆薬製造などを指導したり、同郷の製靴職人らを招いて、軍靴や爆薬など母国の製造技術を伝えた方だそうです。
石碑は県とドイツの交流を図る団体「和歌山日独協会」の創立10周年を記念したもの。
六角石柱の玄武岩で、高さは約175cm。
通りに向けられた表面には、
「カールケッペン寓居之跡」
と記され、裏面にはケッペンの功績が紹介されているそうです。
ここから角を曲がって南へ向かいました。
しばらく自転車で走ると
右側の柵の内に「徳川吉宗公誕生地」の石碑と説明板があります。
徳川吉宗は、貞享元年(1684)10月21日、和歌山城下吹上の御用屋敷で生まれたとされています。
父は紀州藩二代藩主・徳川光貞(みつさだ)、母はその側室のお由利で四男として生まれました。
お由利の方は紀州藩士巨勢(こせ)六左衛門の娘とされているそうですが、当時、側室ではなかったので城下で出産したようです。
御用屋敷は南北約57m、東西約38mで600坪あったようですが、現在はその面影が無いので想像がつかないです・・・。
吉宗は、元禄10年(1697)4月、葛野(かずらの)藩(現:福井県朝日町)3万石をいただき藩主になりました。
ただ、現地へは行かず帰国して、伝法橋南詰東側の水野重孟(しげたけ)の屋敷で過ごしたようです。
宝永2年(1705)、2人の兄の相次ぐ死によって紀州藩五代藩主となります。
その後、享保元年(1716)、八代将軍に襲職し、享保の改革を進めました。
P.S 過去画像
普段の吉宗像です。
台座にある徳川吉宗年表
天守閣と吉宗さん
和歌山大学教育学部附属小学校正門
たしか別門から守衛さんに言って来客証みたいなのを受け取って校内に入りました。
「和歌山県 教育発祥の地」
の石碑が校門を入って右側に建立されています。
グランド中央には「岡山の根上がりの松」があります。(2004年撮影)
「紀伊国名所図会」によると、松並木が和歌山城の追廻門(おいまわしもん)から和歌浦の紀州東照宮までの街道に続いていたそうです。
この辺りはかつて砂丘であり、その砂丘上に松並木が続いていました。
(ウィキさんによると、この砂丘の海側にあと2つ砂丘が平行してあったよう)
根元の砂が雨風によって流された結果、このような「根上がりの松」と呼ばれる松が多く見られたそうです。
現在は枯死したものが多く、現存しているのはこの1本だけです。
ちなみに和歌浦の玉津島神社境内にも根上がりの松が保存されています。(天然記念物)
土地勘がある地元民にしかわからないけれど、
こちらは「高松の根上がりの松」で、高松付近にもこのような松並木が続いていたそうです。
最後まで残ったこの1本は「鶴松」の名称で親しまれていたそうですが、
大正13年に枯死してしまい、画像のように枯死状態で境内に保存展示されています。
吉宗誕生地碑沿いの道(2016年撮影)
次はここから向こう(南)に走りました。
つづく