(幸福境涯を築く)
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〈『生命と仏法を語る』より〉
瞬間、瞬間に流れゆく生命には、大きくみると十種の状態がある。これを仏法は「十界」と捉えた。
具体的に言えば、われわれの生命は「六道」、つまり「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人界」「天界」という境涯がある。
そして「声聞(しょうもん)」「縁覚(えんがく)」「菩薩」「仏」という、より高次元の境涯がある。
この範疇(状態)を、厳としてもっているのが生命の実相である。
瞬間にあらわれる十界のいずれかの生命は、固定されるものではない。次の瞬間にはまた、十界のいずれかを涌現していく。
この生命のダイナミズムを、仏法の直感智が見事に捉えた法理が「十界互具(各十界のなかに、また十界がある)」である。
これらが、それぞれ顕現したり、冥伏(みょうぶく)したりする。これは私どもの日常生活でよくみる、またよく感じ、納得できる。
ここで重要なことは、仏法の探求の眼は、尊厳にして無限の力をもつ「仏界」という生命を、いかにして顕現しゆくか、というところにあった。
本来、仏道修行というものは、この「仏界」を涌現するためになくてはならない。日蓮大聖人の仏法は、この一点に凝結され、正しき「本尊」をうちたて、その現実的方途を提示している。
ゆえに、万人が正しき信心修行をなしうるものなのである。
これまでの人類の歴史の結果は、まだまだ六道輪廻の流転を乗り越えていないといえる。
・・・。
仏法は、この泥沼のごとき社会にあって、なおかつ「仏界」という人間生命の最極なる「尊厳性」の可能性を見いだしている。
六道に翻弄されている私どもの一念が、正しき本尊に南無(帰命)し、境智冥合(きょうちみょうごう:祈りの対象と、それを観ずる智慧が深く融合しあうこと)しゆくことにより、
「仏界」という無限の生命力を発動する。
言葉で表現するのはむずかしい。「仏界」というのは、他の九界のような具体的なものではない。
九界を無限の価値の方向へ動かしゆく本源的な生命の働きである。
曇天の日がつづいても、雨の日でも、ジェット機が高度一万メートルに達すれば、煌々と太陽が輝き、安定した飛行ができる。
と同じく、現実の生活が、いかに苦衷にあっても、苦難の連続であっても、この胸中の太陽を満々と輝かせていけば、悠々と乗り越えていける。
この太陽を、たとえて言うならば、「仏界」といえるかもしれない。
・・・。
仏果を得たといっても、なんら姿が変わるものでもない。六道九界の現実社会のなかで、そのままの姿で生き抜いていくのである。
神秘的な悟りとか仏というものは、真の仏法ではまったくない。
人間として大事なことは、低き境涯から、より高き境涯へ・・・。
さらに、狭小な境涯から、無限の広がりの境涯へと進み、広がりゆくことである。
その最極の一点の境涯が、「仏界」となるわけである。