猿腕&スワンネック変形指&不気味な形の爪のPIANIST NAMUKAのBLOG -23ページ目

猿腕&スワンネック変形指&不気味な形の爪のPIANIST NAMUKAのBLOG

インフルエンサーなどに楽曲や耳コピピアノアレンジを提供(HAPPYちゃん他) 耳コピアレンジやオリジナルピアノ楽曲をスワンネック変形指&猿腕ピアニストとして弾く。フジコヘミング氏のリハーサルピアニストや、漁師ピアニストの徳永さんにラカンパネラを指導。

さやちゃん新曲
「MAKOTO」
制作秘話



"本当"
私は生まれたその日に、
母親に泣かれてる。

「こんな爪で、こんな指で、父親と同じ指爪腕で生まれてきてしまって、この子はこの手のせいで不幸な人生になるかもしれない」
と。

小学校低学年の頃、少しだけ師事していたピアノの先生には、「ピアノに向いていない指してるよね」
と。

それでも私は、"本当"の演奏を求め、
不幸だろうがそんなことはおかまいなしに、
"本当"にピアノや音楽というものに
夢中であれたんだ。


私には10年師事した、第二の父親のようだったピアノの師匠がいる。2011年2月3日に亡くなった。種田直之先生だ。
種田先生がいなければ、今の私はいないと言い切れる。本物の演奏を求め、出会えた恩師なのである。


種田先生は世界的ピアニスト、そしてピアノ指導者として知られていて、日本人で初のドイツにあるカールスルーエ音大で教鞭をとり、ドイツで音大の教授をした日本人として第一人者だ。
今では世界的ピアニストの登竜門で知られるエトリンゲン国際ピアノコンクールを、立ち上げ、ずっと総監督をされていた。

このコンクールでは、有名な中国人ピアニストのランランや 日本人では上原彩子さん、辻井君などなど、まだまだあげきれない数多くの現在大活躍中のピアニストが優勝、入賞されていて、若きピアニストの登竜門的なコンクール。
中国人のランランが初めて参加した国際コンクールはこのエトリンゲンだったそう。
まだ中学1年だったランランは その頃も今みたいな情熱的な演奏だったそうだ

そして先生が ずーっと審査員長してる中で1番印象に残っている入賞者ピアニストは 
日本人の上原彩子さんの演奏 。
ラ・カンパネラやメンデルスゾーンのスケルツォとかを弾いたそうで、 
ほんっとに天才的だったって言っていた
(上原彩子さんは その後チャイコフスキー国際コンクールで優勝したりしてます。)

それから先生はベートーヴェンをはじめ、たくさんの音楽家や楽譜の研究をされて。楽譜の出版の最優秀賞とかも受賞されてます。


そして私は種田門下生のレッスン代全額免除特待生として、10年間学ぶことのできた弟子で、
本当に素晴らしい学びをさせていただくことが出来、
レッスンの内容が毎回充実すぎていたため、
新しい音楽の知識、演奏の知識、
これらが私の頭の容量に収まるのが、すごくすごく大変だったけれど本当の演奏の世界というのを知り尽くすことのできた学びの時間を過ごすことができたのです。

楽譜のきちんとした読み方、
きちんとした技術での演奏の仕方、
というのが、
ピアノ演奏にはあり、
でも種田先生に出会うまでの私は、
自分流が強すぎた演奏だったのと、
それがなぜか通用していた環境だったのもあり、なかなか癖も抜けず、
種田先生はいつもいつも指導は手厳しかったんだ。

でも少しずつよくなってきているのは 自分自身実感できていたし
種田先生に師事してからが、
明らかにピアノの鳴らし方が変われて、
なにより初めてのレッスンでの衝撃のこと、
幼少期からの長年の演奏における悩みを、一瞬で解決してくれたんだ。
だから本当に、心から信頼をおける先生に出会えたことの幸せな気持ちが 
どんなに厳しい先生のレッスンにも耐えられていたんだよなと思う


1レッスン2時間はあたりまえで、週3から、本番前になれば週5レッスン、
キャリーケースでなければ楽譜は10冊ほどは持ち歩くし腕がダメになる、新譜は1週間でほぼほぼ暗譜をしていなければ怒られるし、
恋愛も遊びも許可制で、毎日の練習チェックの電話、本当に、ピアニストの師弟関係はフランスとかでは一緒に暮らすこともあるくらいだったりもするらしく、結構ピアノ的アスリートな生活をしていたなと思う。


"徹底的に弟子のスケジュールを管理して
師匠が弟子の暮らしの指揮をとるということ"

私は、一緒に暮らしているワケじゃなかったけど
自分の人生を種田先生に指揮してもらってたようなものだったんだ

"ピアノ"のことは、
"自分のしたいことを表現するためのもの" 
みたいな感覚で昔からいたから、

だからその"自分の唯一の強みのピアノ"のことを知り尽くしている種田先生のことを
"私が知らないことでもなんでもかんでも知ってる存在"
"知識の宝庫"のような存在だった

いつも肯定してくれて
うけいれてくれて
認めてくれて
"知識の宝庫"でいてくれて
種田先生がいれば私って万能かもって思ってたし
実際そんな環境を与えてもらっていたのです


だから、種田先生が亡くなってしまった時の悲しみは、
本当に本当に計り知れないくらいのものだったんだ。

今でも、父と、第二の父親だった種田先生の"命日反応"というものが、
2月と3月に私は起きる。
父の命日は2002年3月11日だからです。






さやちゃん新曲

「MAKOTO」作成秘話



10月下旬は、
私の父と、
そして、まるで私の第二の父親のようだったピアノの恩師の誕生日があって、
さやちゃんから曲作成をお願いしてもらったのは、
去年のその時期だったんだ


今は2人とも亡き人になってしまったけれど、
私の人生においてとても大切な存在だった2人なのである


そして、11月下旬くらいに4つの詞がさやちゃんからメールで届き、
「好きなものから取り組んでください」ということだったんだ

そして私は、
このMAKOTOを始めに選んだよ


私がMAKOTOに最初に取り組んだ理由は、
私自身、
本当のこと、本当の演奏、本当の音楽、本当の奏で方、"本物の音を楽しみ奏でること"
についてを、
10代の頃から、かなりこだわりをもち探究してきたということがあるからだ

嘘くさいニセモノな奏で方をしていたくなかったし、
誰かの演奏に対してのジャッジメントは
幼少期の頃から私自身がかなりの毒をもっていたかもしれない


それだけ演奏の世界は探究しつくしていけることがあるし、
ピアノを演奏をするという奏で方についてのあらゆることは私自身なまやさしくないことは体感してきていて、
これは全ての演奏楽器がそうであり、
それをしていくべきなのが演奏家で、、、
たくさんの、本当に計り知れないくらいの奏で方の知識、そして世界的一流ホンモノの演奏をたくさん聴く時間をわざわざしっかりたくさん作りながら細胞から耳から自分に養い自分の奏でるということに繋げ表現演奏をする、ということでいなければ、
と、
思っていたりするところもある私なんだ


パッセージに対しての力のかけ方や粒を揃えて理想な響き方にするためには?
音価はそろっていなければ、
この音色にしていくために、の、丁寧な奏で方との向き合い方、テクニックの大切さ、
音のハーモニーバランス感、
音の並び方、には、
"かなりのこだわりを持つことが大切"
で。

スワンネックする指や猿腕のことから上半身が少しおかしなフォームになる自分は、
自分以外の普通の指したピアノを弾く人間が憎くてうらやましかった感情があったから、
だからこそ、
誰よりも"本当"で"本物"の音楽を奏でることを求め、勉強してきたと思ってる

でもそれがあったからこその自分の"限界"を感じる悔しさがあったりもしたのです


そんな感情を経験してきた今の私が思うのは、
どんなことがあっても、
理想を失わなければ、
そして、自己に対してのジャッジメントを厳しくしすぎなければ、
"本当の"、"本物の"自分の音楽を、それから人生を、奏で、生きることが出来る、ということだ

そんな過去がある私は、
このMAKOTOの詩を読み、
この音楽をまずは奏でたい、と決めたのだ

自分の奏でる演奏を楽しむために、
奏でる自分に対してのジャッジメントを
厳しくしすぎないことは、
大切なことだなと思うんだ


あーしたかったこーしたかった、
もっとあーしたいなこーしたいな、
そうゆうことは、あるだろう

そうゆうのは
どんどん向き合うのがイイと思う

それがあるからこそ
ブラッシュアップされた演奏が未来で奏でることが出来ると思うし自己受容になるからだ


だけど、
奏でたかったことを実現出来なかった瞬間があった奏者自身を、
奏でる自分が自分に"責めて責めて責める"ようにも感じとれるかのようなジャッジメントをしすぎてしまっては、
楽しみ奏でる音楽の意味がないんだよ


それすらも音楽の演奏として認識して精神的鬱から自死に至る演奏家、音楽家は、
歴史上にもありふれていたりもするけれど、

本当は、奏でる奏者自身の人生ステージで、もっともっと奏でる演奏に対して楽しむために心地良く、
奏者自身が奏者自身へのジャッジメントを優しくしてあげたらイイだろうと思うんだ


ひとつひとつの理想の音色を奏で楽しむ世界が平和な調和の世界である音楽と、
一瞬一瞬を理想の人生を生き楽しむ世界をつくる人の、
生きてく心や意識の在り方は同じだよ