さやちゃん(吉野さやかさん)新曲「MAKOTO」誕生秘話② | 猿腕&スワンネック変形指&不気味な形の爪のPIANIST NAMUKAのBLOG

猿腕&スワンネック変形指&不気味な形の爪のPIANIST NAMUKAのBLOG

インフルエンサーの方などに楽曲や耳コピピアノアレンジを提供(HAPPYちゃん、吉野さやかさん、美湖ちゃん他) 耳コピアレンジやオリジナルピアノ楽曲やクラシック等スワンネック変形指&猿腕ピアニストとして弾く。漁師ピアニストの徳永さんにラカンパネラを指導。

さやちゃん新曲
「MAKOTO」
制作秘話



"本当"
私は生まれたその日に、
母親に泣かれてる。

「こんな爪で、こんな指で、父親と同じ指爪腕で生まれてきてしまって、この子はこの手のせいで不幸な人生になるかもしれない」
と。

小学校低学年の頃、少しだけ師事していたピアノの先生には、「ピアノに向いていない指してるよね」
と。

それでも私は、"本当"の演奏を求め、
不幸だろうがそんなことはおかまいなしに、
"本当"にピアノや音楽というものに
夢中であれたんだ。


私には10年師事した、第二の父親のようだったピアノの師匠がいる。2011年2月3日に亡くなった。種田直之先生だ。
種田先生がいなければ、今の私はいないと言い切れる。本物の演奏を求め、出会えた恩師なのである。


種田先生は世界的ピアニスト、そしてピアノ指導者として知られていて、日本人で初のドイツにあるカールスルーエ音大で教鞭をとり、ドイツで音大の教授をした日本人として第一人者だ。
今では世界的ピアニストの登竜門で知られるエトリンゲン国際ピアノコンクールを、立ち上げ、ずっと総監督をされていた。

このコンクールでは、有名な中国人ピアニストのランランや 日本人では上原彩子さん、辻井君などなど、まだまだあげきれない数多くの現在大活躍中のピアニストが優勝、入賞されていて、若きピアニストの登竜門的なコンクール。
中国人のランランが初めて参加した国際コンクールはこのエトリンゲンだったそう。
まだ中学1年だったランランは その頃も今みたいな情熱的な演奏だったそうだ

そして先生が ずーっと審査員長してる中で1番印象に残っている入賞者ピアニストは 
日本人の上原彩子さんの演奏 。
ラ・カンパネラやメンデルスゾーンのスケルツォとかを弾いたそうで、 
ほんっとに天才的だったって言っていた
(上原彩子さんは その後チャイコフスキー国際コンクールで優勝したりしてます。)

それから先生はベートーヴェンをはじめ、たくさんの音楽家や楽譜の研究をされて。楽譜の出版の最優秀賞とかも受賞されてます。


そして私は種田門下生のレッスン代全額免除特待生として、10年間学ぶことのできた弟子で、
本当に素晴らしい学びをさせていただくことが出来、
レッスンの内容が毎回充実すぎていたため、
新しい音楽の知識、演奏の知識、
これらが私の頭の容量に収まるのが、すごくすごく大変だったけれど本当の演奏の世界というのを知り尽くすことのできた学びの時間を過ごすことができたのです。

楽譜のきちんとした読み方、
きちんとした技術での演奏の仕方、
というのが、
ピアノ演奏にはあり、
でも種田先生に出会うまでの私は、
自分流が強すぎた演奏だったのと、
それがなぜか通用していた環境だったのもあり、なかなか癖も抜けず、
種田先生はいつもいつも指導は手厳しかったんだ。

でも少しずつよくなってきているのは 自分自身実感できていたし
種田先生に師事してからが、
明らかにピアノの鳴らし方が変われて、
なにより初めてのレッスンでの衝撃のこと、
幼少期からの長年の演奏における悩みを、一瞬で解決してくれたんだ。
だから本当に、心から信頼をおける先生に出会えたことの幸せな気持ちが 
どんなに厳しい先生のレッスンにも耐えられていたんだよなと思う


1レッスン2時間はあたりまえで、週3から、本番前になれば週5レッスン、
キャリーケースでなければ楽譜は10冊ほどは持ち歩くし腕がダメになる、新譜は1週間でほぼほぼ暗譜をしていなければ怒られるし、
恋愛も遊びも許可制で、毎日の練習チェックの電話、本当に、ピアニストの師弟関係はフランスとかでは一緒に暮らすこともあるくらいだったりもするらしく、結構ピアノ的アスリートな生活をしていたなと思う。


"徹底的に弟子のスケジュールを管理して
師匠が弟子の暮らしの指揮をとるということ"

私は、一緒に暮らしているワケじゃなかったけど
自分の人生を種田先生に指揮してもらってたようなものだったんだ

"ピアノ"のことは、
"自分のしたいことを表現するためのもの" 
みたいな感覚で昔からいたから、

だからその"自分の唯一の強みのピアノ"のことを知り尽くしている種田先生のことを
"私が知らないことでもなんでもかんでも知ってる存在"
"知識の宝庫"のような存在だった

いつも肯定してくれて
うけいれてくれて
認めてくれて
"知識の宝庫"でいてくれて
種田先生がいれば私って万能かもって思ってたし
実際そんな環境を与えてもらっていたのです


だから、種田先生が亡くなってしまった時の悲しみは、
本当に本当に計り知れないくらいのものだったんだ。

今でも、父と、第二の父親だった種田先生の"命日反応"というものが、
2月と3月に私は起きる。
父の命日は2002年3月11日だからです。