猿腕&スワンネック変形指&不気味な形の爪のPIANIST NAMUKAのBLOG

猿腕&スワンネック変形指&不気味な形の爪のPIANIST NAMUKAのBLOG

インフルエンサーなどに楽曲や耳コピピアノアレンジを提供(HAPPYちゃん他) 耳コピアレンジやオリジナルピアノ楽曲をスワンネック変形指&猿腕ピアニストとして弾く。フジコヘミング氏のリハーサルピアニストや、漁師ピアニストの徳永さんにラカンパネラを指導。

音楽の世界は感情の世界。
「私という存在意義」

私という存在意義は、

ずっと、それを証明しなければ生きていけないと思ってきた。

生まれた日、母は私の指と爪を見て泣いた。「この子は不幸な人生になる」と。
その瞬間から、私は「存在すること」の許可を、
どこかで求め続けていたのかもしれない。
──
父は「死なない」と言って消えた。存在を保証してくれるはずのものが、突然、無になった。その時から、私は自分で自分を支えなければ、いつ消えてもおかしくないと思った。
だから、私は必死で証明してきたのかもしれない。


標準的でないこの指で、
それでも誰にも出せない音を鳴らすことを。
父の死という「恥」を、
音楽に変えられることを。
複雑性PTSDという「おかしさ」を、
それでも誰かの共感に届く言葉にできることを。


証明すればするほど、存在意義は確かになると思っていた。
でも、証明が増えるたびに、どこかでこんな疑問が湧いた。

「もし、何も証明できなかったら、私は消えていいのか」

---

最近、これかとわかったことがある。

存在意義とは、自分で「ある」と決めるものではない。
誰かに「ある」と認められるものでもない。

それは、
"ただ、そこに「在る」だけ。"

ピアノを弾いている時、「聴かせたい」という思いを手放した瞬間、指はただ動き、音はただ響く。
それだけで、私は「在る」。


ノートに「私はここに在る」とだけ書いた日、
その文字は、誰にも読まれないかもしれない。
でも、書いた瞬間、私は確かに"在る"のです。

---

存在意義は、何かを成し遂げた先にあるのではない。
存在意義は、誰かに認められた先にあるのでもない。

ただ、息をしていること。
ただ、音を鳴らしていること。

ただ、ここに「在る」と、自分で感じることなんだ。

その繰り返しの、その一つ一つの積み重ねが、たぶん、私という存在意義なのだ。

スワンネックの指で、今日も私は鍵盤に触れる。
父のいないこの世界で、今日も私は息をする。
表情が合っているかわからないまま、今日も私はここに在る。

それだけで、十分なのかもしれない。







練習が嫌になる。難しい曲に向き合い続けるのが、もう無理だと思う瞬間がある。

それは、悪いことじゃない。むしろ、誰にでも訪れる、自然なことだ。だから「もう弾かない」と選ぶのは、その人の自由だ。曲を変えてもいい。しばらくピアノから離れてもいい。それもまた、その人が自分で下した選択である。

でも、その選択の責任を、誰かに押しつけるのは、まったく別の話だ。

「先生のせいで、子どもがピアノを嫌いになった」

この言葉を聞いた時、私は深い息が漏れた。

練習に挫折したのは、その子ども自身だ。
曲が難しく感じたのも、練習に向き合えなかったのも、その子の感情であり、その子のタイミングだ。それを「指導者のせい」と言い換えることで、親は自分の無力感から目を背けたかったのかもしれない。子どもの苦戦を前に、何もできなかった自分を責めるかわりに、誰かを責める道を選んだのだ。

気持ちは、わからなくもない。自分を守るために、他者に責任を転嫁する。それは人間の弱さとして、理解できる部分もある。

しかし、その矢は確実に、誰かの心臓に突き刺さる。

私は、この指で幼少期からピアノと向き合ってきた。標準的な奏法が弾きにくいと感じたり、何度も「向いていない」と言われた。

それでも音を探し続けたのは、ピアノが好きだったからだ。

その私の人生の多くをかけた営みを、「嫌いにさせるもの」と断罪されることが、どれほど深く尊厳を踏みにじる行為か、想像したことがあるだろうか。

責任転嫁とは、自分の痛みを処理するために
誰かを傷つけることを選ぶ行為だ。
それは、一瞬だけ自分を軽くするが、相手の背中には、見えない重りを永遠に貼り付ける。

具体的に伝えてほしかった。
一緒に改善策を考えたかった。


でも、突然の人格否定と責任転嫁の前に、
対話の扉は閉ざされた。

──
誰にでも、逃げ出したくなる時はある。
誰にでも、誰かのせいにしたくなる時はある。

でも、その矢を放つ前に、少しだけ考えてほしい。
矢を受け止める側にも、人生があり、尊厳があり、ピアノの前で長い時間をかけて積み上げてきたものがあるということを。