練習が嫌になる。難しい曲に向き合い続けるのが、もう無理だと思う瞬間がある。
それは、悪いことじゃない。むしろ、誰にでも訪れる、自然なことだ。だから「もう弾かない」と選ぶのは、その人の自由だ。曲を変えてもいい。しばらくピアノから離れてもいい。それもまた、その人が自分で下した選択である。
でも、その選択の責任を、誰かに押しつけるのは、まったく別の話だ。
「先生のせいで、子どもがピアノを嫌いになった」
この言葉を聞いた時、私は深い息が漏れた。
練習に挫折したのは、その子ども自身だ。
曲が難しく感じたのも、練習に向き合えなかったのも、その子の感情であり、その子のタイミングだ。それを「指導者のせい」と言い換えることで、親は自分の無力感から目を背けたかったのかもしれない。子どもの苦戦を前に、何もできなかった自分を責めるかわりに、誰かを責める道を選んだのだ。
気持ちは、わからなくもない。自分を守るために、他者に責任を転嫁する。それは人間の弱さとして、理解できる部分もある。
しかし、その矢は確実に、誰かの心臓に突き刺さる。
私は、この指で幼少期からピアノと向き合ってきた。標準的な奏法が弾きにくいと感じたり、何度も「向いていない」と言われた。
それでも音を探し続けたのは、ピアノが好きだったからだ。
その私の人生の多くをかけた営みを、「嫌いにさせるもの」と断罪されることが、どれほど深く尊厳を踏みにじる行為か、想像したことがあるだろうか。
責任転嫁とは、自分の痛みを処理するために
誰かを傷つけることを選ぶ行為だ。
それは、一瞬だけ自分を軽くするが、相手の背中には、見えない重りを永遠に貼り付ける。
具体的に伝えてほしかった。
一緒に改善策を考えたかった。
でも、突然の人格否定と責任転嫁の前に、
対話の扉は閉ざされた。
──
誰にでも、逃げ出したくなる時はある。
誰にでも、誰かのせいにしたくなる時はある。
でも、その矢を放つ前に、少しだけ考えてほしい。
矢を受け止める側にも、人生があり、尊厳があり、ピアノの前で長い時間をかけて積み上げてきたものがあるということを。
