私のとって夏の花はユリです。


紅筋ヤマユリ(べにすじやまゆり)を鉢植えにし、ベランダで育てたら彩やかな大輪の花を咲かせました。
夏の夜、涼風にのって部屋に入ってくる、ほのかなユリの香りを何年か楽しんだものです。

けれど鉢が窮屈になってきたので、許可を得てマンションの庭に植え替えました。
一昨年のことです。


そのユリが、今年たくさんの花を咲かせました。
一部を花瓶に活けて楽しんでいます。


暑中お見舞い申しあげます
(ユリの香りを添えられないのが残念)

ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's)といえば、オードリー・ヘップバーンの不朽の名作映画ですね。
ニューヨークの超高級宝石店を眺めながら、オードリー・ヘップバーンが朝ご飯にクロワッサン(デニッシュ?)を食べるシーンと、バックに流れるヘンリー・マンシーニ作曲の主題歌「ムーンリバー」…
この映画の導入シーンは忘れられません。

さて、今回のテーマは映画ではなく蕎麦屋。
朝7時から開店し、朝食が美味しくて財布にやさしいIMOSEN(いもせん)を紹介します。


とある日曜日、訪ねてみると暖簾がかかっていません。
定休日でした(涙)。


数日後行ってみると、暖簾がかかっています。
しかし、11時を過ぎていたので朝食セットは終わっていました。
でも迷うことなく大盛り(盛りそばの大)を注文します。


喉ごしの良い九割そばとのこと。
暑い日が続き夏バテ気味でも、スルスルと食べられます。

ツユは仙台らしくやや甘めで、マイタケの天ぷらとの相性もよく、
最後にそば湯を加えてじっくり味わいました。


そばを堪能し外に出ると、チリンチリンと涼しげな音色(ねいろ)が聞こえました。
近くの軒下の風鈴です。
お隣の甘味処の粋な計らいのようです。

ところで、蕎麦屋なのになぜイモなのでしょう?


ラグビーをやっていたという4代目店主の話によると、初代店主の千(せん)さんが大学ポテトを商っていて、芋屋の千さん→いもせんが屋号のように続いているということでした。

朝7時から食べられる“朝蕎麦”は大人気で、ホテルの朝食をキャンセルして食べに来る旅行客もいるそうです。


いつか私も、IMOSENで朝食を(Breakfast at 芋千)

7月19日・20日に行われる「やなぎ町夏まつり」に行ってきました。

以前このブログで取り上げた、未と申を守り本尊とする大日堂(正式名:柳生山教楽院 大日如来堂)のお祭りです。

 


今年はすぐ近くにある仙台トラストシティ(ウエスティンホテルのビル)が、地域の賑わい創出を目指して初参加(お祭りの第2会場)。

写真はトラストシティの広場で行われた芸能ステージ。Lime Lightの爽やかなブルーグラスが響きます。

かつてはお祭り開催日が小学校の終業式で、通信表で泣き笑いした後で昼ごはんも早々に、勇んでお祭りに駆け込んだというほど、地域の子どもたちにとって大切な伝統行事だそうです。


子どもたちにとって大切な行事だったのは何故でしょう?
それは江戸時代、このお寺(大日堂)が、地域の子どもたちが集まる寺子屋だったからだそうです。
なるほど、「おだいにっつあん」と呼ばれ今でも親しまれているわけだ。


子どもたちが、このお堂で読み書きなどを一生懸命学んだのでしょうね。
柳町の皆さんが大切にする理由がわかりました。

どこにでもありそうな子どもの祭り、と思っていた私はちょっと反省です。

全国各地で甲子園の地方大会が真っ盛り。

                                  写真はすべてイメージです

甲子園といえば思い出すことがあります。


18歳で上京してすぐ、全員初対面だからと

自己紹介を求められる機会がありました。
「○○出身の□□です。よろしくお願いします。」

シンプルな自己紹介が続く中、

「この前甲子園で活躍した掛△西高校出身の◎◎です」と、

意気揚々と話す人がいました。
オーッ!

どよめきが沸きあがり◎◎君は得意満面。

私も羨ましいなぁと思いました。

高校時代は運動部ではなく文化部に所属し、

クラスメートに野球部員が数人いたので

甲子園予選の県大会に行ったことはありました。

 

でも特別熱心に応援したわけではなかった私は、

そのとき母校が甲子園に出場したことがないことにハタと気づき、いつか自己紹介で甲子園出場高校出身と言いたい!と強烈に思ったものです。
動機は不純なものの、

ほどなく県予選の応援に必ず顔を見せる熱心な卒業生の1人になっていました(笑)

30代までは応援団の近くに陣取り、

一緒に声を張り上げました。

40代は少しバックネットに近いところに陣取り、

声をからさない程度に応援しました。

 

50代は日射しが届かないバックネット裏で、

身体をいたわりながら応援しました。


そして現在は、

インターネットの中継か速報を眺め、

同窓生と電話やLINEで繋がりながら応援しています。

自己紹介をする機会など

とっくになくなっていますが、

今でも母校の甲子園出場を熱望しています。

1945年(昭和20年)7月10日、仙台は2時間にわたる爆撃を受けました。
「仙台空襲」です。
1399人の市民が犠牲になったそうです。

今年はそれから80年。
青葉区大町の戦災復興記念館を訪れました。


空襲と復興の記録を保存し、2度と戦争の悲劇を繰り返さないよう後世に伝える戦災復興記念館では、2019年に発見し2024年に撮影した、横穴式の大規模な防空壕を写真や動画で展示しています。

 

全長200メートル以上で小部屋が10室、民間用につくられた国内最大級の防空壕で、100人超の市民を救ったそうです。


また、多くの人たちの体験談が展示されています。
「三つになるかならないかの子どもが、もらったおにぎりをつかんで死んでいた」(千葉光男さん)

3月10日の東京大空襲に向かっていた3機のB29が、何故か蔵王連峰の不忘山(ふぼうさん)に墜落し34人の米兵が命を落としました。

そして、1961年(昭和36年)に地元の有志が慰霊碑を建立するにあたり、亡くなった米兵の母親から感謝の手紙が届いたそうです。
「戦争の真っ只中にあっても、敵に奮い立つこともあれば、敵と悲しみを共有することもある」とライターの菅井理恵さんは綴ります(記録集 蒼空の月VOL.10) 


ちなみに、当時のGHQの報告書には不忘山のことを「WASUREJI-NO-YAMA(忘れじの山)」と記していたそうです。
新開昌利さんは「その言葉が戦争を忘れまいとする意志をあぶり出しているように感じた」と振り返ります(同)


仙台空襲から8月15日までの1ヵ月ほどで、東北では釜石が艦砲射撃(7/14、8/9)に、青森が空襲(7/28)に、秋田が空襲(土崎8/14)にそれぞれみまわれ、3500人を超える一般市民が命を奪われました。

今が新しい戦前と言う人がいます。

忘れてはなりません!

そして、過ちを繰り返してはなりません、絶対に!