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この一週間ブログを休んだ。短い日記式で毎日書くか、エッセイとして1000字程度を毎週一二度書くか迷っている。平成がまものなく終わると88歳になるので、生き方を変えたいと考えている。

 

日本医学会と老年学会の提案では、90歳以上を「超高齢(者)期」としたいという。6574歳を准高齢(者)期、7589歳を高齢(者)期として、それを超える超高齢である。これは自分の考えにもぴったり合う、その上英語読みがsuperoldというのが気に入った。このスーパーオールあドをブログやエッセイのニックネームにしたい、

 

エッセイもスーパーエッセイとして、いわゆるエッセイ教室式でなく、自由気ままでのびのびと書きたいと思う。今から二年間で超高齢期の自分のスーパーエッセイを固めていきたい。90歳からの人生がより自由に考えて書けるようにしたものである。

 

このブログをその準備場所にしたい。

 

 

 

 

 
 


 

五連勝と五連敗、大相撲春場所の熱戦が続く五日目の明暗。引き分けの無い相撲は勝

 

か負けかの二者択一の勝負である。一瞬の立ち会いが大きく勝負を分ける、この一番に勝負をかける力士の心中は究極の緊張がすべてを左右する。

 

勝負は時の運とも言うが、これは一種の逃げではないかと考えてしまう。勝つべくして勝ち負けるべくして負ける、これが事実である。

 

15日間を無事怪我なく全勝は奇跡ではない、事実で当然の結果でパーフエクトでもある。白鵬にも陰りが見え出した相撲界に、このパーフエクトをなしうる力士はだれか。

 

五日目にして数人になってしまう厳しい勝負の世界で、これを制するためには見えざる神の手が差し伸べられることが必要か。

 
 


 

8年前の東日本大阿震災で犠牲になった16000人の時間は、地震発生時の246分から動かない。この5月からは平成が終わり新元号の時代が来るが、未来永劫平成23311日午後246分で変わらない。

 

被災者でも幸い助かった人々の時計は今何時を示しているのだろうか。おそらく一人一人が違った時間を心に深く刻んで居られることであろ

 

う。

 

あらためて犠牲者の方々のご冥福と、被災された方々のご健勝と幸せを心からお祈りしたい。

 

 改めて自分の時間を考えてみると、TVやラジオの時報に合わせた時計と同じだと言いたい。が、どうもそうではないような気もする、しかし何時と言える心の時計がつかめない。つまり時間が見えないのだろうか、何れ死によって止まる自分の時間が今何時か見えないのは幸せかもしれない。止まらず動いていることだけが分れば十分の気がする。動いている自分の時間を大切にしたいと思う。

 
 

 

NHテレビの日曜美術館で、小原古邨の版画を紹介していた。フクロウが月夜の光で白く光り枝を離れようとする一瞬をとらえ、下に三日月が白くかかるが再現した刷り師は水に映る月だという。墨の濃淡だけで、わずかにフクロウに薄く色がかかる、驚くほどの立体感である。現在の技術でも難しい版画再現の迫力は原画にまさるとも劣らない強烈な印象を受ける。光と墨の濃淡だけでこれだけの版画が生まれることを再現した現代の刷り師に感動した。

 

色は最小限にし、墨の濃淡で描く水墨画の魅力に通じる版画だった。

 

自分も4月から毎日文化センターの書道を3か月受講するが、その後は水墨画を受講して墨の濃淡を探求したい。5月から改元されることにあわせて、第3の人生を墨の濃淡を探求する人生にしたいと思う。

 
 

 

いまNHKのテレビのナビゲーションSPで、障害者をかかえる家族の苦労をとりあげている。高齢の母が息子の面倒を見て暮らす姿は、想像以上に厳しい。母親の愛情を障害者の息子に捧げる姿は、神仏でも及ばない親子愛でもある。

 

しかしこの母親が高齢ゆえにできなくなることは目前に迫ってくる。

 

地域の支援や行政・福祉施設の支援には限度があり、多くは望めない。

 

命の尊厳を誰が守るかは、地域社会というより公的機関の役割りかも知れない。が、無条件の公的受け入れは無い、障害者や高齢者の生存をはばむのは意外と公的制得度とも言える。東京の病院では人工透析患者の申し出で透析治療を止めて、患者が死亡して問題になっている。生命の尊厳は本人が医療を絶って、死を選ぶ自由も認めない。

 

高齢の自分が果たしてその立場になったら、医療を断って死を選択できるかも全くわからない。一日でも長く健康で自力で生きる努力だけは、自分の責任で続けたい。

 

 

 
 

 

小雨まじりの啓蟄、虫たちが出るには土も湿って柔らかく格好の日和だった。

 

東京の拘置所では報道陣のフラッシュをあびて、10億円の歩車金払ったゴーン氏が出所した。母国フランスの政府も長い拘置を批判してきたが、さてこれからどう動きだすのかゴーン氏は? もう一人、北朝鮮に帰った金委員長は今日の啓蟄にも動かずじっとしている。強気の思惑が外れてハノイの米朝会談からもどったったまま出てこない。

 

北朝鮮では啓蟄どころか深く潜ってしまった金委員長、世界をあっと思わせるような出かたを模索しているのだろうか。韓国の文大統領も呼びかける言葉を失っているのではないか。他人のことをあれこれ言っているだけでは天から怒りの雷が落ちてくるかもしれない。先ずは自分がしっかり長い冬中の引きこもりから抜け出さねばならない。

 

啓蟄を期に心を一新して大きく息を吸い込もう、新鮮な気持ちで春を迎えたい。

 
 

 

今日はコートもなく眼科医の検査に出かけた。定期の検査で異常なく一安心シフト駐車場のすみに赤い花をつけた桜の植木が少し控え目に立っていた。一カ月早く4月になったような錯覚を感じた。そういえば今年は麦の緑がいつになく濃く深い、家の前の川を流れる水もゆるやかにながれる。陽射しも明るく柔らかで、すべてが春の装いであ自分の心のほうもゆったりとゆるんでくる、まさに行雲流水で早い春のおとづれを畑のる。草とりをしながら満喫した。時間もなにやらゆっくりとペースを合わせてくれるような気もした。できれば今年はこのペースで暮らしたいものである。

 

今日はテレビやラジオで参議院の予算員会の質疑応答を視聴したが、こちらは質問する議員も答弁する安倍総理はじめ閣僚などの緊迫したやりとりが、なにか空虚に感じたのも春の空気に包まれた自分のゆるんだ心の所為だろうか。

 
 


 

独り暮らしの高齢者を狙った「アポ電」が突然のように社会問題化している。

 

自分の息子の声や話し癖をよく知ってるはずの親がなぜだまされるか。

 

そんなことは信じられない、自分なら絶対だまされないと誰でも思うだろう。

 

被害者になった人はなぜだまされたのか、マインドコントロールに負けるのではないか。

 

カネを要求する電話ははじめのうちに切ってしまうことが良いと考えるが、なぜできないのだろうか。電話が長引くほどはまりやすくなるようだから、早く切ることを第一に考えたい。何より顔を見て話を聞くことを最優先にしたいものだ。

 

悲しいニュースを聞くたびに、なぜだまされるのかと同情するが高齢者の弱みに付け込む犯人がにくい。

 
 

 

数年来今年こそやろうと思いながらできなかった、本棚の古本整理に思い切って終日取り組んだ。もともと本は若いころから好きだったが、経済的なこともあり図書館利用の方が主であまり買うことはなかったが。それでも少ない本棚に詰め込んで乱雑にほこりをかぶったま整理ができなかった。ほこりを払いながら一冊ごとに昔を想いながら残したい本と捨てる本を整理する作業ははかどらない。

 

夕方になって、一気に廃棄する本をからげて廊下に並べた。まだ少し未練もあり、まもなく帰省する孫や子供にみせてほしい本がないか確認してから捨てることにした。

 出先から帰った妻が「貰ってくれる本なんかないよ」と明言するが、一縷の希望を捨てきれない。ビニール日紐でくくられて冷たい廊下に積まれたなじみの本たちが、急にいとおしくなってきた。いや、それはない、さよーなら本たち…。
 

 

今テレビで就職の面接試験の問題をパックンはじめ5名のゲストにためしている。

 

それぞれ業種や会社の方針によって違うが、むかしの口頭試問的なものとは全く違う。

 

思い切った発想の転換が大切のようだ、常識でない発想というか高度なAI技術に対応できる柔軟で鋭くユニークな発想が必要だと感じる。

 

現在の進んだ学校教育でも考えられないQAを想定しなければ対応できないだろう。

 

高齢者の自分も思い切った発想の転換をする訓練が必要だと感じた。就職試験を受けるわけではないが、若い世代と共生するためには旧知や価値観を詰め替えることが大事だ。

 

いや詰め替えなくても深層に埋めて、新しい発想の転換をその上に乗せることが良いかもしれない。いずれにしても日々発想の転換をするよう絶えず努力することから始めたいと思う。