もしも人間が自由意志を奪われたら、ただの操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。
霊的本性が進化ぜず、地上目的、地上生活の目的も果たせません。
あなたが地上に生を受けたのは地上が霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。
様々な挑戦にあい、それを克服していく中で、自由意志を行使してこそ霊は進化できるのです。

霊的に見て間違っている事は決して許されるものではありません。
しかし、不完全な世界においては、ある程度の間違えた行き過ぎはやむを得ません。
そうした中にあって、皆さんが平和と友好の中で暮らすべき全生命の福祉を促進するために戦うべきなのです。
愛とは摂理を成就することなのです。

私が常々申し上げているのは、殺害の観念がつきまとう、食料品はなるべくなら摂取しない方が良いということです。
殺すと言う事は絶対にいけないことです。
ただし、その動機を考慮しなければならない場合があることを認めます。

霊的
向上を望むものはいかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。
その摂理は霊的なのです。
霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。
愛と慈悲と寛容と同情と協調です。
こうした原理に従って考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。
しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。
そのために神は自由意志と言うものをお与えになっているのです。

それぞれの魂に地上生活中に真理を学び、自我を見いだすためのチャンスが用意されております。

それを本人が拒絶したからといって、それはあなたが悪いかに思う事はありません。
あなたの責任はあなたの能力の範囲でベストを尽くすことです。
やってあげられるだけのことをはやったと確信したら、後の事は忘れて、次の人のことに専念なさることです。
これは非情と言うのとは違います。
霊力はそれを受け入れる用意のない人に浪費すべきものでは無いのです。

自覚のない魂は、こちらでは施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるをえない場合があります。
霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして、何百年何千年とかかることもあります。

質問者
「親しい知人が援助してくれるのでしょうか?」

できるだけのことはします。
しかし自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のない所に光明は差し込めないのです。
それは私たちが直面する根本的な問題です。

あなたのように、霊的な知識を手にした人間は、自分の元を訪れる人にそれを提供する義務があります。
ですが、受け入れる用意のできてない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。
手を差し伸べる用意だけはいつも整えておくべきです。

もしお役に立てばそうさせていただいたことに感謝の意を表しなさい。
もしもお役に立てなかったら、その人のために涙を流してあげなさい。
その人はせっかくのチャンスを目の前にしながらそれを手にすることができなかったのですから。

いってんの曇りもなく、霊的心理を確信できた人間は、真の自我に目覚め、霊的可能性を知ることになると、私たちは信じるのです。
生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。
霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。
そして、霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。
自然にそうなるのです。
それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増して参ります。